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私の第三十四夜をつづります。

鳥羽離宮跡(4)東殿から馬場殿へ

 京都・鳥羽の旅を振り返り、東殿の安楽寿院と北向不動尊の写真を見ながら、つい12世紀の相模国府に寄り道をしてしまった。
 不勉強のうえに記憶力が怪しくなっている私は、鳥羽離宮の景観(地形・歴史・遺跡・史跡・文化財など)についてほとんど知識の無いまま、訪れてしまった。馬場殿も城南宮を訪れただけだ。(とにかく、安楽寿院を訪ねることができれば…その思いで訪れた鳥羽の地だった。)
 その結果として、
 「美福門院は、なぜ、ただ一人、高野山の地に眠ることを強く望んだ(ように伝わっている)のだろう。鳥羽天皇遺命によって美福門院陵として建立された新御塔(1157年落慶)があるというのに、なぜ、その地が選ばれなかったのだろう。それは、美福門院の強い意思による選択だったのだろうか。」という疑問を持つだけに終わってしまった。
 その最後の選択のあり方を、今日(こんにち)的に想像することは安易に過ぎるだろうが、とても興味深い意思のあり方だと思う。
 いつか、また改めて鳥羽離宮跡を隈なく歩き回ることができれば嬉しい。

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白河法皇 鳥羽法皇 院政之地」の石碑
碑は、北西側の鳥羽天皇陵(本御塔:三重塔の地点)と、南東側の近衛天皇陵(新御塔の地点)とをつなぐような場所に置かれていた。

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「冠石」と表示がある石
院政之地」の碑のそばに置かれていた(名前の由来は諸説伝わっている)。

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鳥羽天皇安楽寿院陵
『鳥羽離宮跡を訪ねて』の「安楽寿院の歴史」(斉藤亮秋)によれば、「鳥羽天皇は自ら土葬とすることを御遺詔で指示されて」いたという。
一方、鳥羽天皇崩御から4年後の永暦元(1160)年、美福門院は「白河押小路殿で崩御され、翌日に鳥羽離宮東殿へ移されて火葬され」、「美福門院の御遺言ということで、御遺骨を高野山に葬る」ことになったという。
そして(長い引用になって恐縮の思いだが)、続けて次のような経緯が記されている。
「新御塔の6人の三昧僧(天台僧)が本御塔の三昧僧と一緒に、どうして弘法大師真言)が伝教大師(天台)より尊いのか、鳥羽法皇が定め置かれたことを改めるのは不当であると、訴えましたが受け入れられず、それなら分骨して両方に納めてはどうか、と申しても聞き入れられず、御遺骨はなくとも御塔の三昧僧は怠けず勤めるように諭され、ついに御遺骨は高野山に送られました。」
この美福門院の新御塔と相模国糟屋荘との係わりを示すのが、平治元(1159)年の「太政官牒 安楽寿院」だ。
平塚市史 1 資料編 古代・中世』によれば、「…美福門院の去んぬる七月廿日の奏状を得るに偁わく、件の御塔は…郡萌を仏種に導かんがためなり、仍って永代の用途として、数箇の御領を寄せらる、件の十一箇所の院領 年旧り、庄号の日 久しく…」とあり、糟屋荘は「院内新御塔領 諸国庄園」の「壹處 字糟屋庄 在相模國」として記されていることが分かる。
相模国府がすでに大磯に移っていた1159年、糟屋荘は安楽寿院に寄進された。しかし、1160年、美福門院はその新御塔(1157年落慶)に埋葬されることはなかったのだ。

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鳥羽院馬場殿の地に建つ現在の城南宮
城南宮の”三光の紋”が鳥居にも輝く。中央上に大きな太陽〇、向かって右に小さな星、左に小さな月☾が示されている。北辰信仰や薬師三尊像の「日(太陽)」の位置関係とは異なるようだ…確かに…。