enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

相模守 藤原親弘周辺の動き

 谷川茂氏による「親忠家と俊成」の詳細な年表をもとに、自分の忘備録として、藤原親弘に係るできごとを拾い出してみた。
 ここで感じたのは、やはり乳母の力、そして多産の力だ。
歌人相模が強く子を希ったことを思い起こさずにはいられなかった。
 12世紀の鳥羽の地で、大きな影響力をもっていたと思われる美福門院、その乳母伯耆、乳母子の美福門院加賀といった女性たち。その恩恵に浴したであろう藤原親忠・親弘父子、そしてその一族たち。そんな感想が残った。
 はたして、八条院・安楽寿院と相模国との関係は、実際にはどのようなものだったのか。
12世紀半ばの鳥羽の動きと相模国府遷移とは、どこかで係っている…そんな妄想が消えないままだ。
 
   【相模守 藤原親弘周辺の動き】    青字:相模国の動きと<相模国司>
 
1095      藤原親忠(親弘の父)、誕生。
1103      鳥羽天皇(宗仁親王)、誕生。
1106      〇この頃、大庭御厨の開発  <藤原宗佐>
1114       藤原俊成(室に親忠の女[美福門院加賀])、誕生。
1117       藤原得子(美福門院)、誕生。
(得子の乳母は伯耆[親忠の室])
親弘、誕生?
大庭御厨、伊勢神宮に寄進  <藤原盛重?>
1123      鳥羽天皇崇徳天皇に譲位。
1127     藤原頼定 ( 室に親弘の女)、誕生(親弘女との子頼房は1176年生)。
1135      親弘、民部少丞。
1136      得子、従三位
親忠、安房守。
1137      得子、瞕子内親王を産む。
1139      得子、躰仁親王近衛天皇)を産む。
得子、女御。
1141      得子、皇后。
1142      親忠の女(親弘の妹。為経[寂超])、隆信を産む。    <藤原頼定>
1143      得子、親忠が改修した白河押小路殿(女院御所)に移る。
1144      三浦氏、源義朝らが大庭御厨に乱入(~1145)。  <藤原頼憲>
1146      親長(親弘の子)、修理亮(皇后宮恩給)
1147      この頃、親弘は左馬助。
1148      親忠の女(再婚。俊成室)八条院三条を産む。
1149      親忠、大宰少弐筑前守。
得子、美福門院(院号)
1152      正月28日、親弘、相模守(元上総介?)。  <藤原親弘
      3月・11月、藤原頼定、相模権守。
      美福門院、親忠を八条東洞院泉亭木作の奉行に。
1153     親長、式部丞。
親忠、若狭守を辞し、隆信(元越前守)が代わる。
親忠、卒。
親弘、復任。  <藤原親弘
1154      相模国糟屋庄、立券。  <藤原親弘
1154      親忠の女(美福門院加賀)八条院按察を産む。
1155      近衛天皇崩御
1156      美福門院、出家。
親忠の女、成家を産む。
1157      親弘正五位下(相模守現任)。 <藤原親弘
親忠の女、八条院中納言を産む。
1158      〇この頃、故親忠の八条坊門宅、美福門院の御所となる。
親忠の女、前斎院大納言を産む。   
〇1158年時点で相模国府はすでに大磯に遷移  <藤原親弘?>
1159  平治の乱
1159  糟屋庄、安楽寿院に寄進。  <藤原親弘?> 
1160      美福門院、逝去。                           
1161      瞕子内親王八条院(院号)                         
1164      親忠の女(美福門院逝去後、八条院に仕える)、定家を産む。
1166      親弘(但馬守)、遷任の功(成功)
1167    故美福門院の乳母伯耆の大炊御門朱雀宅、六条南油小路東宅、焼亡。親弘、河内守辞任。
1167  八条院三条の夫 藤原盛頼(藤原成親の弟)、相模守現任。  <藤原盛頼>
1176      安楽寿院庄として、相模国糟屋庄。  <平業房
1179      関白基通、伯耆尼の六条北堀川西亭に渡る。
1180      俊成の五条宅、炎上。俊成ら、伯耆尼の法性寺亭に移る。
「日来重病」の親弘(前但馬守)、卒。
1181  頼定、卒。
1194      親忠女、没。