谷川茂氏による「親忠家と俊成」の詳細な年表をもとに、自分の忘備録として、藤原親弘に係るできごとを拾い出してみた。
ここで感じたのは、やはり”乳母の力”、そして多産の力だ。
歌人相模が強く子を希ったことを思い起こさずにはいられなかった。
12世紀の鳥羽の地で、大きな影響力をもっていたと思われる美福門院、その乳母伯耆、乳母子の美福門院加賀といった女性たち。その恩恵に浴したであろう藤原親忠・親弘父子、そしてその一族たち…。そんな感想が残った。
12世紀半ばの鳥羽の動きと相模国府遷移とは、どこかで係っている…そんな妄想が消えないままだ。
1095 藤原親忠(親弘の父)、誕生。
1106 〇この頃、大庭御厨の開発 <藤原宗佐>
1117 藤原得子(美福門院)、誕生。
〇親弘、誕生?
1127 藤原頼定 ( 室に親弘の女)、誕生(親弘女との子頼房は1176年生)。
1135 親弘、民部少丞。
1136 得子、従三位。
親忠、安房守。
1137 得子、瞕子内親王を産む。
得子、女御。
1141 得子、皇后。
1142 親忠の女(親弘の妹。為経[寂超]室)、隆信を産む。 <藤原頼定>
1144 三浦氏、源義朝らが大庭御厨に乱入(~1145)。 <藤原頼憲>
1146 親長(親弘の子)、修理亮(皇后宮恩給)。
1147 この頃、親弘は左馬助。
1152 正月28日、親弘、相模守(元上総介?)。 <藤原親弘>
3月・11月、藤原頼定、相模権守。
美福門院、親忠を八条東洞院泉亭木作の奉行に。
1153 親長、式部丞。
親忠、若狭守を辞し、隆信(元越前守)が代わる。
親忠、卒。
親弘、復任。 <藤原親弘>
1154 相模国糟屋庄、立券。 <藤原親弘>
1156 美福門院、出家。
保元の乱。
親忠の女、成家を産む。
1158 〇この頃、故親忠の八条坊門宅、美福門院の御所となる。
親忠の女、前斎院大納言を産む。
〇1158年時点で相模国府はすでに大磯に遷移 <藤原親弘?>
1159 平治の乱。
1159 糟屋庄、安楽寿院に寄進。 <藤原親弘?>
1160 美福門院、逝去。
1166 親弘(但馬守)、遷任の功(成功)。
1167 故美福門院の乳母伯耆の大炊御門朱雀宅、六条南油小路東宅、焼亡。親弘、河内守辞任。
1179 関白基通、伯耆尼の六条北堀川西亭に渡る。
1180 俊成の五条宅、炎上。俊成ら、伯耆尼の法性寺亭に移る。
「日来重病」の親弘(前但馬守)、卒。
1181 頼定、卒。
1194 親忠女、没。