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私の第三十四夜をつづります。

鳥羽離宮跡(3)鳥羽の北向山不動院

 相模国府について学び始めた十数年前、国府中枢域で謎めいた位置にあるように思えた二つの寺が、現在の四之宮にある高林寺と”北向観音”だった。高林寺の地点については寺院跡、あるいは国司館跡と想定する捉え方がある一方で、”北向観音”は考古学的対象とはなっていなかった。
 しかし、『吾妻鏡』にある「五大堂」、「大會御堂」とみなされている”大会寺(北向観音)”は、国府域東端の要の位置にあった、という点で、見過ごすことのできない存在であるように感じられた(国府域内を東西に貫く古代道路は、現在の”北向観音”に向かうようなルートを示している)。
 また、なぜ、いつから北向きなのだろう、「大會御堂」も北向きだったのだろうか…と興味を持ち続けた。
 そして、その後の2004年、とうとう、現在の”北向観音”の北東250mの地点(四之宮の大念寺付近)で、国庁東脇殿と推定される遺構が発見された(このことで、”北向観音”は偶然にも、国庁の裏鬼門を守る位置にあたることになった)。
 同じ頃、「”北向観音”に関係のあることかもしれないよ」と考古学の先生から教えていただくことがあった。それは『川崎市史』のなかに、平塚市四之宮の大会寺観音堂のことが書かれている、という意外な情報だった。
 考古学も文献学も素人の私は、その情報の内容よりも何よりも、専門の先生にそうしたことを教えていただいたこと、それ自体が飛び上がるほど嬉しかったことを、今回懐かしく思い起こした。
 『川崎市史』では、市内寿福寺に残る大般若経(全600巻)の巻101の奥書 「治承3(1179)年7月4日午時、大会堂南面西向源実定恵房書是」にある”大会堂”について、平塚市四之宮の大会寺観音堂であろう、と推定されていたのだった。
 今回、改めて思い起こすまで、その大般若経の書写事業が行われた年代が1179年であることを忘れていた。12世紀第4四半期…平塚はすでに国府所在地ではない。その一方で、”大会堂観音堂北向観音)”で、そうした事業が行われたことの意味は何だろう…。また新たな問いかけが生まれた。

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鳥羽天皇安楽寿院陵の南東角に立つ「北向不動明王」の道標

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北向山不動院 (北から撮影) 
説明板には「…大治五年(一一三〇)鳥羽上皇勅願により鳥羽離宮内に創建され…」、「…本堂に…不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向に安置した。…」とある。

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北向山不動院の南門
南門は現在の新城南宮道に面している。南門の東では、東殿の”池跡”・”中島跡”が調査されている。
また、南門の南には「安楽寿院 九体阿弥陀堂」の地業跡が検出されている。
『鳥羽離宮跡を訪ねて』(京都渡来文化ネットワーク会議 京都歴史散策マップ№2 2012)によれば、【阿弥陀堂「九間四面 檜皮葺 堂一宇 丈六金色阿弥陀如来像九体」】とある。一間3mとしても丈六の仏様には狭いかもしれない。しかも九体が並ぶところを想像する。壮観だったろうと思う。

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「安楽寿院 本尊 阿弥陀如来坐像」の説明板
1139年建立の三重塔の本尊であったとされる阿弥陀如来坐像の拝観は、今回の旅では果たせなかった。
鳥羽上皇による鳥羽離宮造営期は、相模国府平塚の最後の時代と重なる。そして、私のなかで、大磯国府のイメージは、すでに頼朝の時代…鎌倉武士の時代のものだ。
現在の平塚や大磯に、かつて、そのような時代があったこと…現代の旅のなかでわずかに感じることができた。