830年代から始まる
相模国司・
橘氏としての橘 峯継・真直兄弟の登場を、父・橘 氏公、ひいては橘 嘉智子や
仁明天皇に係る人事であろうか、と推定した。
その氏公・嘉智子・
仁明天皇が、848年・850年と相次いで没する。その後の9世紀後半についても、
相模国と
橘氏との係わりが気になるところだ。
一方で、840年代から890年頃まで、
相模国司として
嵯峨源氏の融・興・勤・啓・生・有・直・至・平たち、また
仁明源氏の冷・光の名が集中して連なっている。
なかでも9世紀後半、
嵯峨源氏の相模守たちの間隙を縫うように、868年に
仁明源氏の源 冷が、872年に源 光が権守として登場する。
同じ9世紀後半において、相模介・権介に相変わらず
従五位下以上の人々が任命されるなかで、868年の相模権守・源 冷とともに、相模介として橘 峯雄の名があがっている。そして、この峯雄も、氏公の子であり、峯継・真直の異母兄弟であった。
また、この橘 峯雄と時期を同じくして、権介・橘 休蔭の名が見える。この休蔭は、氏公・嘉智子の弟・氏人の子と推定されるため、峯継・真直・峯雄の従兄弟にあたることになる(なお、この870年前後の時期に、休蔭の娘は
清和天皇の更衣となり、
親王を出産したと思われる)。
嵯峨源氏・
仁明源氏の相模守たちのほとんどが遙任と思われるなかで、仁明・文徳・清和朝における相模守・相模介・相模権介としての
橘氏の存在は、何かしらの積極的な意味づけを必要としているように感じられる。
橘氏は
相模国とどのように係ったのだろうか。この9世紀という時代、
相模国の行政を実質的に動かしていたのは誰だったのだろうか。依然として謎のままだ。