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私の第三十四夜をつづります。

相模国司-9世紀後半の介・橘岑雄、権介・橘休蔭

 830年代から始まる相模国司・橘氏としての橘 峯継・真直兄弟の登場を、父・橘 氏公、ひいては橘 嘉智子や仁明天皇に係る人事であろうか、と推定した。
 その氏公・嘉智子・仁明天皇が、848年・850年と相次いで没する。その後の9世紀後半についても、相模国橘氏との係わりが気になるところだ。
 一方で、840年代から890年頃まで、相模国司として嵯峨源氏の融・興・勤・啓・生・有・直・至・平たち、また仁明源氏の冷・光の名が集中して連なっている。
 この時期の中央政治を担う公卿には、嵯峨源氏仁明源氏の第一世代が名を列していた。相模国司としての嵯峨源氏仁明源氏が連なる特徴的な人事も、同時期の中央政治と絡まるように思われる。
 なかでも9世紀後半、嵯峨源氏の相模守たちの間隙を縫うように、868年に仁明源氏の源 冷が、872年に源 光が権守として登場する。
 同じ9世紀後半において、相模介・権介に相変わらず従五位下以上の人々が任命されるなかで、868年の相模権守・源 冷とともに、相模介として橘 峯雄の名があがっている。そして、この峯雄も、氏公の子であり、峯継・真直の異母兄弟であった。
 また、この橘 峯雄と時期を同じくして、権介・橘 休蔭の名が見える。この休蔭は、氏公・嘉智子の弟・氏人の子と推定されるため、峯継・真直・峯雄の従兄弟にあたることになる(なお、この870年前後の時期に、休蔭の娘は清和天皇の更衣となり、親王を出産したと思われる)。
 嵯峨源氏仁明源氏の相模守たちのほとんどが遙任と思われるなかで、仁明・文徳・清和朝における相模守・相模介・相模権介としての橘氏の存在は、何かしらの積極的な意味づけを必要としているように感じられる。
 橘氏相模国とどのように係ったのだろうか。この9世紀という時代、相模国の行政を実質的に動かしていたのは誰だったのだろうか。依然として謎のままだ。