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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の時代から中世へ-静範と聖範

 今日(日付が新しくなって”昨日”)、図書館で11世紀後半の年表(『新・国史大年表 第二巻』(国書刊行会)を眺めていて、偶然、「(阿多見)聖範」と同音の「静範」の名を目にした(仮に”セイハン”と読むとして…それとも”ショウハン”及び”ジョウハン”と読むのだろうか?…という儚い手掛かりなのだが)。
 ともかく、この『新・国史大年表』をもとに、先日書き留めた「京~走湯権現~相模を結ぶもの」(2012.10.6)に続く手掛かり(になりそうな事項)をまとめておこうと思う。

 1063 康平6年 3月 興福寺の静範ら、成務天皇の陵から宝物を盗む。
            5・13 山陵使を成務天皇陵に派遣する。
           10・17 僧静範を伊豆に、その仲間16人を各地に配流する。
           12・15 天皇陵を修理して宝物を返納する。
                〔扶桑略記・百練抄〕
            8月 伊予守源頼義相模国由比郷に石清水八幡宮を勧請、建立する。
                〔鶴岡八幡宮寺社務職次第・『吾妻鏡』治承四年十月十二日条〕
 1066 治暦2年 7・2 流人前下野守源頼資興福寺僧静範らの罪を赦す。
                〔扶桑略記・清獬眼抄〕

 次に「静範」について簡単にまとめてみる。

 藤原静範:藤原兼房の子(兼房は、藤原道隆の子)
        :静範の祖父道隆の妻に大弐三位がいる
          (大弐三位歌人相模とは、共に藤原定頼と交際関係にあったとされる)
 
        :静範の父兼房が伊豆配流の静範を思って詠んだ歌
         (『後拾遺和歌集』 第十七 雑三 より) 
 「静範法師 八幡の宮のことにかヽりて、伊豆の国に流されて、又のとしの五月に、内の大弐三位の本につかはしける 藤原兼房朝臣
996  さつきやみ 子恋の杜の ほとゝぎす 人知れずのみ 鳴きわたるかな                    かへし 大弐三位
997  ほとゝぎす 子恋の杜に 鳴く声は 聞く夜ぞ人の 袖もぬれけり 」          
             
【註】”子恋の杜”は伊豆山神社周辺の森。「古々比の森」「古々井の森」「子恋の森」。なお、”八幡の宮”は石清水八幡宮をさすようだが、静範法師の伊豆国配流とどう係るのか、現時点では不明。
        
        :静範の異母兄弟? 藤原兼仲(1037~1085)は相模国司(1083年現任)

 これらの年代から、「静範」が伊豆国に配流されたのは、歌人相模と大江公資が任国の相模国を離れてから40年後であり、残念ながら、彼らが相模国伊豆国で出会うことはなかったようだ。 
 
 あきらめずに妄想の線をたどる。
 「静範」は1066年に罪を赦されて興福寺に戻ったのか。それとも(同音のセイハン、すなわち”聖範”へと名を改めて?)伊豆国(子恋の森~伊豆山神社周辺?)にとどまった可能性はないだろうか
(ちなみに、兼房の子・宗円を下野国宇都宮氏の祖とする説があるようだ。同様に、静範が伊豆国で地盤を築こうとした可能性も想定できるかもしれない。)
 そして、もし「静範」が伊豆国にとどまったのであれば、十数年後に相模国司となった(異母兄弟?)藤原兼仲と、何らかの形で係った可能性も生まれてくるのではないだろうか・・・と。 
 
 さらに妄想を広げる。
 藤原兼仲(1083年現任)の後任である相模国司藤原棟綱(1086年現任)と、「静範」伊豆配流後の相模国源義家(1063年以降任官か)とは、母方の祖父が平直方(「阿多見聖範」の父とされる。源頼義は娘婿にあたる)という関係になる。
 また、源義家は1081年、父頼義が勧請した相模国由比郷の元八幡(由比若宮)を修復している。2年後の1083年、義家は相模国府~鎌倉に集結した兵たちを加えて陸奥国へと向かったのではないだろうか・・・と。
 
 「阿多見聖範」、そして「静範」から生まれた妄想で、11世紀後半の相模国司や東伊豆~平塚~鎌倉の海岸線をつないでみた。
 果たして「藤原静範」と「阿多見聖範」とが同一人物である可能性はあるのだろうか?
 (この場合、「阿多見聖範」は平直方の養子ということになるのだろうか。)
 もう少しこの妄想を追いかけていこうと思う。
 
追記1:その後、平直方の没年(1053年)から考えれば、聖範(1063年伊豆国配流)は直方の養子にはなりえない・・・と気がついた(遅すぎるが)。ただ、京から伊豆国に配流された貴族・僧侶たちは、当時、何らかの形で伊豆山神社と係ったのではないだろうか、という想定は消えないままだ。
追記2:藤原静範は1066年に罪を赦された後、「多武峰往生院千世君歌合」(1080年前後)に出詠している。彼が伊豆にとどまっていた可能性、阿多見聖範と同一人物である可能性は低いといえるだろう。