今日(日付が新しくなって”昨日”)、図書館で11世紀後半の年表(『新・国史大年表 第二巻』(国書刊行会)を眺めていて、偶然、「(阿多見)聖範」と同音の「静範」の名を目にした(仮に”セイハン”と読むとして…それとも”ショウハン”及び”ジョウハン”と読むのだろうか?…という儚い手掛かりなのだが)。
5・13 山陵使を成務天皇陵に派遣する。
10・17 僧静範を伊豆に、その仲間16人を各地に配流する。
12・15 天皇陵を修理して宝物を返納する。
〔扶桑略記・百練抄〕
〔扶桑略記・清獬眼抄〕
次に「静範」について簡単にまとめてみる。
:静範の祖父道隆の妻に大弐三位がいる
:静範の父兼房が伊豆配流の静範を思って詠んだ歌
(『後拾遺和歌集』 第十七 雑三 より)
996 さつきやみ 子恋の杜の ほとゝぎす 人知れずのみ 鳴きわたるかな かへし 大弐三位
997 ほとゝぎす 子恋の杜に 鳴く声は 聞く夜ぞ人の 袖もぬれけり 」
997 ほとゝぎす 子恋の杜に 鳴く声は 聞く夜ぞ人の 袖もぬれけり 」
:静範の異母兄弟? 藤原兼仲(1037~1085)は相模国司(1083年現任)
あきらめずに妄想の線をたどる。
さらに妄想を広げる。
藤原兼仲(1083年現任)の後任である相模国司藤原棟綱(1086年現任)と、「静範」伊豆配流後の相模国司源義家(1063年以降任官か)とは、母方の祖父が平直方(「阿多見聖範」の父とされる。源頼義は娘婿にあたる)という関係になる。
また、源義家は1081年、父頼義が勧請した相模国由比郷の元八幡(由比若宮)を修復している。2年後の1083年、義家は相模国府~鎌倉に集結した兵たちを加えて陸奥国へと向かったのではないだろうか・・・と。
果たして「藤原静範」と「阿多見聖範」とが同一人物である可能性はあるのだろうか?
もう少しこの妄想を追いかけていこうと思う。