enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2012.10.23

 22日朝、はるか昔、20代の頃に出会った友人たちに会いに、安曇野まで出かけた。
 中央線の車窓から見る景色は秋の色に変わっていた。
(8月末、入笠山の花から花へと飛び交っていたアサギマダラたちは、南へと旅立ったのだろうか。)
 
 電車の座席で読みかけの本を読む。家で読むより集中できることが嬉しい。
 今回は『藤原良房』(今 正秀 山川出版社 2012)を読みはじめた。
 具体的な人物を通して大きな時代のうねりをつかめれば…と、夏に選んでそのままになっていた本だ。
 
 23日、雨模様のなかをひた走る帰りの電車の中で、私もひたすら読み続けた。
 
 本の最後にはこう書かれていた。
 
 「時代は中世社会の形成に向かって歩を早めており、十世紀以来の支配の仕組みでは対応できなくなっていた。それは、天皇や貴族には摂関政治が依拠してきた前例や先例では対応できない事態と認識された。そうした事態への対応を最終的に担ったのが院だったのであり、院政が必要とされたのはそのためである。摂関政治とそれが支えた天皇を、いわばまるごと飲み込んだのである。摂関政治が安定した支配の仕組みのうえで天皇と貴族社会を支えたのに対し、院政は中世への激動に対応しながら、院のもとに天皇と貴族社会を再編し、そのあり方を大きく変えていったのであった。」
 
 ふと、なぜか、”3.11”以降の日本の社会のことを思った。今の時代も、いつか、大きく変わっていくのだろうかと。
 ”3.11”以降、自然が隠し持っていた剥き出しでストレートな破壊力と、文明というものが持つ複雑で不気味な二面性を知らされた。そして、日本の社会が、これまでのやり方では対応できない事態にあるのだと気がついた。いつのまにか自分の生きた時代・社会も、閉塞したプレートの中に滑り込み、きしみ、たわみ、ゆがみをため込んでいたのだ。この押し戻せない時代の動きに対応しながら、今の社会を再編し、大きく変えていくのはどのような力なのだろうか。そんなことを思いながら、旅の電車から通勤の電車へと乗り換えた。
 
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                                                                                              北アルプス(松本城から)