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私の第三十四夜をつづります。

読書に向いた場所

 16日、鶴見での講座に出席する前に、横浜駅近くの眼科に寄った。
 数年ぶりに訪れ、その混雑具合に驚く。待合室からあふれた人々は、ビルのエレベータ前や通路にまで並べられたスツールに所狭しと座っている。
 長い待ち時間を覚悟した。電車の中で読んでいた本の続きを読み始める。
 集中力も読解力も衰えて、読み止しの本ばかり増えてゆく私にとって、こうした逃げ場のないところ…ふらふらと別のことをするわけにはゆかないところ…で読書するのが一番なのだ。たとえ、人が通るたびに、よその事務所の自動ドアが開いたり閉まったりするような場所でも、患者さんを呼び出すアナウンスがひっきりなしでも、まったく気にならないのだから。
 運よく(?)まとまった読書時間を過ごすなかで、私のこれまでのモヤモヤとして言葉にならない思いに、一つの形を与えてくれる文章に出逢うことができた。そして、自分のモヤモヤした病状を明晰な言葉で説明してもらったような、安心したような気持ちになった。
 今の自分の記憶力の怪しさを補うために、その文章を抜粋して書き留めておこうと思う。

~『近代天皇像の形成』(安丸良夫 岩波書店 2007年)から~

「…… 天皇制は現代日本においてどのような意味をもち、どのような役割を果そうとしているのであろうか。
 これは容易に答えうる問題ではないが、本書の立場からすると、天皇制は、現代日本においても国民国家の編成原理として存在しており、そのもっとも権威的・タブー的な次元を集約し代表しているということになろう。敗戦を境として、現人神天皇観や世界支配の使命などという、国体の特殊な優越性についての狂信的妄想的側面は、あっさり脱ぎ捨てられ、物質文明と消費主義のなかで生きる人びとの常識に、天皇制は適応してきた。しかし、こうした社会にもほとんど目に見えないような形で秩序の網が張りめぐらされており、天皇制は、政治とは一定の距離をとった儀礼的な様式のもとで、誰もが否定してはならない権威と中心とを演出して、それを拒否する者は「良民」ではない、少なくとも疑わしい存在と判定されるのだという選別=差別の原理をつくりだしている。 ……」

「…… 一見自由で、むしろ欲望自然主義的な原理によって動いているとさえ見える社会が、じつは選別=差別の体系であることの方が、より根源的な事実であり、現代天皇制は、選別=差別によって秩序を確保しつづけようとする社会の側が求めたものだからこそ、存在しているのである。 ……」

「…… 現代の日本では、企業や各種の団体や個人は、一見自由に、むしろ欲望のおもむくままに行動しているのだが、しかしじつは、その自由は国家に帰属してその秩序のなかに住むことを交換条件とした自由であり、国家の側はまたこの自由を介して国民意識の深部に錨をおろし、そこから活力を調達して統合を実現しているのである。こうして、企業やさまざまの集団と国家とは、相互に求めあい保障しあうことで存立しており、どんな日本人もこうした枠組から大して自由ではないのだが、天皇制は、この基本的な枠組全体のなかでもっとも権威的・タブー的な次元を集約し代表するものとして、今も秩序の要として機能している。だからそれは、個々の現象面への批判によっては乗りこえ難い存在であり、いつの間にか心身にからみつくようにして私たちを縛っている。それは、私たち個々人が自由な人間であるという外観と幻想の基底で、どんなに深く民族国家日本に帰属しているかを照しだす鏡であり、自由な人間であろうと希求する私たちの生につきつけられた、屈辱の記念碑である。 

「…… しかし、現代日本天皇制は、栄光や権威に満ち溢れているようには見えない。天皇制が圧倒的多数の日本人に支持されているという現実を見据えながらも、私たちはそこに内包されている矛盾から目をそらすべきでない。天皇家と皇族の人たちは、普通の生活者たる私たちとは別世界の住人ではあるが、しかしあの人たちも私たちの大部分とおなじように現代日本社会に生きるほかない人たちであり、彼らは現代日本においても社会秩序と社会規範の源泉となるように求められていて、そのことが強い抑圧性となっていることは明らかである。あの人たちがいまよりも自由になれば、私たちもまたなにほどか自由の幅を広げることが出来るのではないかと思う。