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私の第三十四夜をつづります。

四十八瀬川右岸の9世紀代の竪穴建物

 19日、今年最後の現地説明会に出かけた。雪肌の富士山をバスの窓から眺める。電車に乗り換え、渋沢駅で降りる。まだ青々とした丹沢連峰を正面に見ながら、桜土手古墳公園まで歩いた。久しぶりに見る公園内の円墳群は、温かな陽射しに安らいでいるように見えた。
 展示館に集まった見学者はマイクロバスのお世話になり、現地の三廻部東耕地遺跡に向かった。遺跡は、鍋割山から流れ出る四十八瀬川の右岸台地上に位置していた。
 今回見学できたのは、遺跡の東半部。東斜面の現場の30m下には四十八瀬川が流れているという。
【この鍋割山麓の自然景観もまた、第二東名(新東名高速道路)建設のために、やがて異様な姿に変じてしまうのだ。いつものように、自分の中には、開発の無残さをふまえて現地説明会に参加するという矛盾がある。】
 
 現場は主に二面に分かれていた。まず、一段高い面で、平安時代の円形土坑と竪穴建物を見学した。遺構脇の白い石を見た時、一瞬、縄文時代の石棒?と思ったけれど、もちろん、そんなはずはない。石組のカマド、ということだった。また、カマドは南東隅に設けられていた。9世紀代の竪穴建物という説明だったが、相模国府域では“南東隅竈は古代終末”と言われていたことを思い出す。また、カマド周辺に広がる土師器片はみな、煤のような黒ずみが目立つように思えた。
【帰宅後、わずかな記憶を頼りに“高林寺遺跡第7地点”の報告書を確認すると、石組カマドではないが、カマド袖・支脚などに自然石を使う例が見つかった。そのSI06とSI09の事例はいずれも南東隅カマドで、およそ10c後半頃の年代と思われる住居跡だった。ただ、報告者の小島弘義氏は「一般に古代終末の竪穴住居址は長方形の住居址が多い」(『諏訪前B・高林寺』1988年)とも書かれていた。三廻部東耕地遺跡の竪穴建物は正方形に近く、9世紀代のものだった。高林寺遺跡の事例と同類ではないのかもしれない。】
 一段低い面ではローム層の試掘坑を覗き込む。旧石器時代の遺物などは出ていないが、断面の層序は端正で、チョコレートケーキのような色調だった。ローム層に挟まれたジャムのような赤錆色の層はスコリア(軽石)と表示されている。封じ込められた鮮やかな地層に自然の脅威を感じた。

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鍋割山山稜と現場:いずれ、この空間を日夜、自動車が行き交うことになるのだ。

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9c代の竪穴建物(石組の南西隅カマド)

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カマド周辺の遺物

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ローム層を掘り込んだトレンチ断面の層序:深い。説明者の方が後ろ向きになると不安になった。

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遺跡西半部の竪穴建物から出土した土師器坏:
薄手で、浅く平たい器形。説明では、丁寧に磨かれ、金属器を模した暗文が施されている、とのことだった。相模国府域で同じような土器を探すと、9c代の“甲斐型轆轤製皿”があった。現地の説明では、平安時代の遺構・遺物の地層の下では、縄文時代の遺構(落とし穴)・遺物が検出されるまで、人々の生活の痕跡は見られなかったようだ。説明された方も、現時点での見解を述べられていたが、縄文時代から長い空白期をはさんで、突如、平安時代の営みが展開した背景について、興味が湧いた。9世紀という時代に、人々はどこから、何を求めて、この四十八瀬川右岸の台地上にやって来たのだろうか。