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私の第三十四夜をつづります。

山王A遺跡第9地点の「厨」墨書土器

 山王A遺跡第9地点の報告書で、8c4/4~9c前半頃の大型掘立柱建物(布掘り、6間以上×2間以上)から、「厨」墨書土器が出土していることを知った。
 これまで相模国府域では、8c前半~9c前半にかけての「大住厨」「大厨」「郡厨」「国厨」「厨」の墨書土器が出ているが、「厨」のみの墨書土器は2例目となるようだ(坪ノ内遺跡の「厨」が複数文字「□ 厨」となる場合は、初例)。 
 この「厨」墨書土器を含め、相模国府域の中には、「国」や「大住郡」との係りを示す墨書土器を集中して出土する遺跡がある。
 
*(8c後半・9c前半頃の)「国」「国厨」           稲荷前A遺跡
*(8c前半・9c後半頃の)「大住厨」「大住」                         稲荷前A遺跡
*(9c前半頃の)     「国厨」「厨(□ 厨)」             坪ノ内遺跡
*(9c前半頃の)     「国厨」                 天神前遺跡
*(8c後半・9c前半頃の)「郡厨」「大住」「住」       天神前遺跡
*(未報告)        「国厨」              六ノ域遺跡
*(8c代の)       「住」                  六ノ域遺跡
(8c後半・9c前半・9c後半頃の)
                                    「大住」                高林寺遺跡
*(9c前半頃の)      「大住」「厨」              山王A遺跡
 
【判読が不確かなものや、「住」・「大住」などを1点のみ出土する遺跡を除くと、以上の6遺跡にしぼられる】 
山王A遺跡第9地点の新たな「厨」墨書土器の出土は、これらのなかで、どのような意味をもつのだろうか。
 まず、第9地点の「厨」墨書土器はどこの管轄のものなのか。
 第9地点の南東に位置する第3地点の竪穴建物から「大住」墨書土器が出ていることを考えると、「郡」の管轄の土器なのだろうか。
 それとも、東の第4地点で、佐波理匙を地鎮具として埋納する掘立柱建物が“国司館か、国師(講師)館か”と想定されていることを考えれば、それらの施設に係る「厨」の可能性もあるかもしれない。そして、その機能に大住郡が係ったとも推定できるかもしれない。
年代としては、第3地点の竪穴建物も第4地点の掘立柱建物も、第9地点の掘立柱建物とほぼ9c前半の時期において重なっている。
この時期、山王A遺跡の砂洲頂部にあたる第4・第9地点一帯には掘立柱建物が林立し、その後の9c代から10c代にかけては、砂洲南斜面の第2・第3地点に竪穴建物が展開していくようだ。
相模国府域の中でも、第3砂洲・砂丘列南面を東西に連なる山王A遺跡や山王B遺跡・構之内遺跡などは、ともにc後半から10cに竪穴建物軒数のピークがある。
国府域東端部の六ノ域遺跡・高林寺遺跡などが8c前半にピ-クをもつのとは対照的な地域だ。しかも、古代東海道はこれらの遺跡群南端を東西に貫くことが知られている。
これらの竪穴建物の時期別分布の特徴は、国府域東端部に置かれた相模国庁が800年前後に廃絶したのち、国府機能の一部が、国府域中央部の遺跡群(山王A遺跡・山王B遺跡・構之内遺跡など)へと移転したことを示唆しているように思える。
その機能の一部を担っていたのが、山王A遺跡第地点の「厨」墨書土器に係るような官衙建物だったのかもしれない。
まだ、第9地点の報告書を読み始めたばかりで、隣接する第5地点・第8地点の報告書などは全く手つかずの状態だ。今後、山王A遺跡・山王B遺跡・構之内遺跡や古代東海道が展開する第3砂洲・砂丘列の景観を、一体的・面的に捉え直す必要があるように感じた。自分の力は衰え減り続ける一方であるのに、勉強すべきこと・分からないことは限りなく増え続けるばかりだ。