山王A遺跡第9地点の報告書で、8c4/4~9c前半頃の大型掘立柱建物(布掘り、6間以上×2間以上)から、「厨」墨書土器が出土していることを知った。
これまで相模国府域では、8c前半~9c前半にかけての「大住厨」「大厨」「郡厨」「国厨」「厨」の墨書土器が出ているが、「厨」のみの墨書土器は2例目となるようだ(坪ノ内遺跡の「厨」が複数文字「□ 厨」となる場合は、初例)。
この「厨」墨書土器を含め、相模国府域の中には、「国」や「大住郡」との係りを示す墨書土器を集中して出土する遺跡がある。
*(8c後半・9c前半頃の)「国」「国厨」 稲荷前A遺跡
*(8c前半・9c後半頃の)「大住厨」「大住」 稲荷前A遺跡
*(9c前半頃の) 「国厨」「厨(□ 厨)」 坪ノ内遺跡
*(9c前半頃の) 「国厨」 天神前遺跡
*(8c後半・9c前半頃の)「郡厨」「大住」「住」 天神前遺跡
*(未報告) 「国厨」 六ノ域遺跡
*(8c代の) 「住」 六ノ域遺跡
*(8c後半・9c前半・9c後半頃の)
「大住」 高林寺遺跡
*(9c前半頃の) 「大住」「厨」 山王A遺跡
【判読が不確かなものや、「住」・「大住」などを1点のみ出土する遺跡を除くと、以上の6遺跡にしぼられる】
山王A遺跡第9地点の新たな「厨」墨書土器の出土は、これらのなかで、どのような意味をもつのだろうか。
まず、第9地点の「厨」墨書土器はどこの管轄のものなのか。
第9地点の南東に位置する第3地点の竪穴建物から「大住」墨書土器が出ていることを考えると、「郡」の管轄の土器なのだろうか。
それとも、東の第4地点で、佐波理匙を地鎮具として埋納する掘立柱建物が“国司館か、国師(講師)館か”と想定されていることを考えれば、それらの施設に係る「厨」の可能性もあるかもしれない。そして、その機能に大住郡が係ったとも推定できるかもしれない。
この時期、山王A遺跡の砂洲頂部にあたる第4・第9地点一帯には掘立柱建物が林立し、その後の9c代から10c代にかけては、砂洲南斜面の第2・第3地点に竪穴建物が展開していくようだ。
これらの竪穴建物の時期別分布の特徴は、国府域東端部に置かれた相模国庁が800年前後に廃絶したのち、国府機能の一部が、国府域中央部の遺跡群(山王A遺跡・山王B遺跡・構之内遺跡など)へと移転したことを示唆しているように思える。
その機能の一部を担っていたのが、山王A遺跡第9地点の「厨」墨書土器に係るような官衙建物だったのかもしれない。