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私の第三十四夜をつづります。

七ノ域遺跡第8地点の調査成果を聞く

13日午後、横浜で「神奈川県発掘成果発表会 2014」を聞いた。最後の発表は平塚市の七ノ域遺跡第8地点だった。相模国府域の北半部第3砂洲・砂丘列上中央に位置する七ノ域遺跡は、第2・第3・第6地点でそれぞれ掘立柱建物群が展開し、第2地点からは大型の鍵を出土している。
 今回、七ノ域遺跡の北端にあたる第8地点でも、2間×6間以上(柱間約1.9m~2.0)・南北棟の大型掘立柱建物が検出されていることが分かった。
(大型掘立柱建物の年代は不明。ちなみに、約10m東の竪穴建物(HSI02)からは壺Gが出ているとのことだった。)
 今回、相模国庁脇殿とされる長大な南北棟が発見された場所から西約800mの位置、すなわち、湘南新道の西延長線上において、年代は不明ながら、6間以上の大型南北棟が発見されたことの意義は大きいように思う。また、七ノ域遺跡の調査成果が徐々に積み重ねられてゆくなかで、その掘立柱建物棟数の増加(特に9世紀代)も顕著になってきたように感じた。
 そして、9世紀を中心とする掘立柱建物群が重なり合う第2・第3地点、未報告の第6地点(年代は不明だが、ほぼ同位置で掘立柱建物が重なり合って展開している)、今回の第8地点など、七ノ域遺跡の掘立柱建物については南北棟が圧倒的に多いことも注目される。
相模国府域のなかで、南北棟の掘立柱建物が集中する遺跡として、構之内遺跡が思い浮かぶが、遺物の多様性・特殊性という点で、やや地味な印象の七ノ域遺跡とは一線を画しているように思う。
七ノ域遺跡はむしろ、その南に隣接する山王A遺跡(第4地点から佐波理匙を出土)に先立って7世紀代から活動を開始しながら、9世紀代に入って以降は山王A遺跡と連動しつつ、構之内遺跡を核とする国府域西半部と、国府域東半の中枢地区との中間位置にあって、9世紀の相模国府の実務機能を担うような位置づけにあったのではないかと想像している。こうして、遺跡が見せていたこれまでの“顔つき”の輪郭が、少しずつ明らかになっていくように思えるのは秘かな楽しみだ。