1月26日に初めて拝観し、その華奢とも見える少年のような像容に親しみを感じた。そして、この不動明王像が畿内で作られた可能性が高い優品であること、造立年代が12世紀という時代であること、大磯丘陵東端という地点に祀られたことの意味に関心を抱いた。
12世紀は、相模国府が大住郡から余綾郡へ移遷した時代であり、大磯丘陵東端は大住郡と余綾郡の郡界とも想定される位置にあたる。その微妙な年代や位置に興味を感じた。12世紀、誰がなぜ、この大磯丘陵東端の地に不動明王を祀ったのだろうかと。
*大磯町の鷹取山地北東部、標高70~130mの東向きの急傾斜地。
*北側・南側には東から侵食谷が入り込む。
*日の当たる山稜頂上部の標高120mの地は”不動平”と言われる平坦地状で、”カンマン不動が祀ってあったと言われ、その敷石が現存している。
かつて、この”日影沢の不動堂”に祀られていた不動明王像は、江戸時代の山火事で焼失を免れて大光寺不動堂へと移され、大光寺が明治初年に廃寺となったのちは八釼神社境内の不動堂へ、さらに松岩寺を経て、現在の新収蔵施設で保管されることとなったようだ。
そして、”日影沢の不動平”と八釼神社を囲い込むように、鷹取山を源とする「不動川」が、北西から東へ、さらに南西へと曲流し、大磯町国府本郷(12世紀中頃以降の相模国府推定地の一つ)に至り、相模湾へと流れ込む(この「不動川」が大磯町寺坂で東海道の想定ルートに重なって流れることも興味深い)。
こうした背景を持つ12世紀制作の不動明王像について、(旧?)大住府を東に睥睨するような大磯丘陵上に、(畿内から移入されて?)祀られたこと、そして(新?)余綾府は、その不動明王像と不動川に守られるような位置に置かれることになった・・・そのように想像することが可能ではないだろうか。
さらに、畿内との繋がりを持つ不動明王像を拝観したことで、これまで中村氏の関与が想定されている国府移遷について、新たな視点が生まれた。12世紀の相模国において、大住府から余綾府への国府移遷を中央に働きかけることが可能な有力者として源義朝を想定できるのではないか・・・源義朝が、中央と中村氏とのパイプ役として、余綾郡への国府移遷に係ったのでないかと想像したのだ(源義朝と熱田神宮大宮司との姻戚関係から、彼と不動明王・八釼神社とを結びつけることもできそうだ。牽強付会の想定ではあるけれど)。
相模国の在地の三浦・波多野・中村氏などとの緊密な関係を保持していた源義朝。その彼が係ったうえでの「12世紀の不動明王像」であり、「12世紀の国府移遷」だったのではないかというのが、今回の不動明王像拝観で得た視点である。
(なお、1月26日は、下吉沢の不動明王像を拝観する前に、上吉沢の八釼神社と妙覚寺を見学した。1142年、持長上人が上吉沢の八釼神社の地に開基したとされる妙覚寺であるが、その大磯丘陵東端の地域に刻まれた”1142年”という年代についても示唆的なものを感じた(1141年義平誕生、1143年朝長誕生、1144年大庭御厨濫行、1147年頼朝誕生・・・の時代であること)。また、現在、大磯丘陵東端には三つの八釼神社があるが、上吉沢の八釼神社が三ノ宮・比々多神社〔伊勢原市〕の所管であるのに対し、下吉沢は六所神社〔大磯町〕であるとうかがった。古代~中世の大住郡と余綾郡との境界線は判然としないが、12世紀の不動明王像については、余綾郡の所生であることを物語っているように感じられた。)