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私の第三十四夜をつづります。

覚書:12世紀の相模国と甲斐国の不動明王立像

 12世紀という時代、不動明王像が大磯丘陵の地(現在は平塚市下吉沢‐八釼神社)に祀られた背景を想像する材料として、東国での類例を探してみた。
 同じ相模国では、厚木市の「木造不動明王立像」(現在は厚木市酒井‐法雲寺)がある。その像高は95.5㎝で、平塚市の「木造不動明王立像」の95.8㎝とほぼ同じだ。制作年代はともに12世紀で、中央(畿内)の作か東国の作か、説が分かれる点も共通する。ただ、厚木市不動明王像は写真で見る限り、「休め」の姿勢を取るかのように、やや弛緩した印象を受ける。それに比べ、平塚市不動明王像は、少年のように引き締まった胴部から腰にかけて緊張し、肩をいからせ、肘を曲げた左腕は羂索を手繰り寄せようとしているかのようだ。衣も厚木市の像は薄くまといつくのに対し、平塚市の像の衣は装飾的で重々しい。
 また、祀られた地も、厚木市では相模川と玉川の合流地点(古代の大住郡。愛甲郡との境界域。13世紀中葉には「熊野山領相模国愛甲荘岡田郷」に含まれるか?)、平塚市では大磯丘陵(古代の余綾郡。大住郡との境界域。)と、立地に違いがあることが分かる。
 さらに、今回出会ったもう一つの例は、隣国甲斐国(山梨県甲州市塩山)で、12世紀末に安田義定が造立した放光寺に残る不動明王像だ。像高は148.4㎝と大きく、(これも写真で見る限り)腰高で両足を開く角度が小さいためか、やや不安定な印象を与える。ただ、平塚市不動明王像に似通っているのは、厚木市の像より、むしろこちらの甲州市の像のほうではないかと感じられた(表情に大きな違いがあるにもかかわらず)。
 この像について、放光寺のHPでは「平安時代後期当寺創建期に在地で制作されたものではないかと考えられる」とされている。また、この放光寺には、「鎌倉時代初頭に奈良を本拠とした奈良仏師の成朝」の制作と考えられる「木造金剛力士像」が残されていた。12世紀末、源頼朝が鎌倉に勝長寿院を建立した際、この仏師成朝が下向して阿弥陀如来像を造立したとされていて、12世紀の東国…相模国甲斐国などに、これらの奈良仏師の足跡が残されていることが分かった。
 この塩山市の例から、平塚市の12世紀の不動明王像は中央の作ではなく、相模国府の移遷に伴う在地の動きの中で、東国に下向した中央の仏師の影響を受けて制作されたものかもしれない…などと思い始める。今回、東国の12世紀の不動明王像について、山道を歩いてさまざま思いめぐらしてきたが、やはりその時代の波の中から生まれるべくして生まれたものなのだろう(註)、という出発地点に戻ってしまったようだ。いつかまた、下吉沢の不動明王像の別の手掛かりに出会えたら嬉しい。
 
【註】安田義定の兄弟にあたる加賀美遠光も不動明王像(南巨摩郡身延町大聖寺平安時代後期)を祀った。その不動明王坐像は高倉天皇より下賜されたもののようだ。地方に残された平安時代後期の不動明王像にはそれぞれ個別の物語があるのだろう。それは当時の社会に生きた人々や地域の歴史でもあるのだ。私が下吉沢の小さな不動明王像に惹かれるのは、像の背後にその時代の人々の姿や地域の景観が見え隠れするように感じるからなのだと思う。
 
国指定重要文化財「木造 不動明王立像」(八釼神社 平塚市下吉沢)のイメージ
〔2013年1月26日に開催された平塚市の”文化財めぐり”で配布されたしおりを撮影させていただいた。〕
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