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私の第三十四夜をつづります。

改めて”不動平”を探し直す(2)【追記】

今回、平塚市博物館のHPからはさまざまな情報を得ることができた。
「発見!ひらつかの民俗 第2回 下吉沢の山と信仰(2009年5月8日)」の記事には、”幻に終わった不動平”の石祠や、大きな樹の下に祀られていた石祠についても詳しく書かれていた。その記事を読んで初めて、前者の石祠は「山王社」、後者の石祠は「山の神」として祀られていることが分かった。それぞれの石祠の由来を知ることができて、これまでの漠然とした疑問が一挙に氷解したように感じた。
また、 『新編相模国風土記稿』でも、「山王社」は「村持」、「山神社」は「大光寺持」と記載されていた。「大光寺持」の五社のうち、「瓣天社」は「弁天通」(小字名)・「弁天神社」・「弁天通古墳群」などに名を遺し、「山王社」と「山神社」は今なお信仰され、下吉沢の地に根付いていることが分かる。これらのことからも、明治初期に廃寺となった「大光寺」が、江戸時代の下吉沢で重要な位置づけにあったことがうかがわれる。
さらに、「山王社」の傍らに祀られた六十六部札塚供養の石仏(施主二宮氏)が「大日如来」であることも分かった。『新編相模国風土記稿』で「大光寺」について「本尊大日」と記されていることと係わるように思われる。
なお、『新編相模国風土記稿』では、大住郡中原上宿・下宿の「山王社」の項に次のような記述があった。
「…山王二十一社の種字を書せる木札あり、裏書曰、此朴念者、當国當郡下吉沢住僧、従十八歳當地密蔵院に在留而…寛永十七庚申十二月朔日、法印大阿闍梨聖應花押…」
この記述から、16世紀後半~17世紀前半の時期、下吉沢に古義真言宗の仏教施設が存在した可能性が考えられるのではないだろうか、と想像している。
 
次に、これまで不動明王像に係って知り得たことを整理しておく。
不動明王像は19世紀前半には「大光寺」境内の不動堂(「がんまん川」と呼ばれていた不動川のほとり)に祀られていたこと。
*その「大光寺」は、山稜上の「山王社」から東に伸びる尾根の端部に位置したこと。
*その尾根の東端部は小字「弁天通」及び「原畑」であること。
不動明王像は「大光寺不動堂」に祀られる以前は、「日影沢の不動堂」に祀られていたと伝わること。
*「日影沢の不動堂」は江戸時代の山火事で類焼し、焼失を免れた不動明王像は「大光寺」に移されたと伝わること。
*その「日影沢」は『新編相模国風土記稿』で「○澤二 櫻澤・日影澤の名あり 幅四尺、共にがんまん川に落、」とあり、現在の小字「桜沢」・「日影沢」に対応すると考えられること。【註1】
 
【註1】ただし、二つの沢が位置する現在の小字はそれぞれ「土堀」・「桜沢」で、小字「日影沢」の地域はその中間にあたる。また、新たな疑問点として、「日影平の不動堂」は誰によって管理されていたのか、という問題が生まれる。
・「12世紀の不動明王像」が、最初に祀られた場所はどこか。それが「日影平の不動堂」なのか。(「大光寺」は19世紀前半時点で存在するが、12世紀まで遡る資料はない。ただし、『新編相模国風土記稿』の「下吉沢住僧朴念」についての記述から、16世紀後半~17世紀前半の時期、下吉沢に仏教施設が存在した可能性、さらに「大光寺」がその時期まで遡る可能性があるかもしれない。)
・「12世紀の不動明王像」が、大磯丘陵に12世紀時点で存在していた寺院の寺域内に祀られていた可能性はないのだろうか。この条件に該当する寺院として、大磯町寺坂の王福寺が挙げられる。(少なくとも、『吾妻鏡』によれば、1192年当時、王福寺は坂本に存在していた。)
・また、下吉沢の小字「日影沢」・「桜沢」の南に隣接する小字「本堂」について、『平塚市地名誌事典』(小川治良 2000)では、「地名は、昔寺があったので付けたものと思われる。現在でも地元では「寺の地」と呼んでいる。一説によると、大磯町の寺坂の王福寺の薬師如来の堂宇が一時あったと言い伝えられている。しかし現在はそれを偲ばせるものはない。」と解説されている。
・現時点では、「日影沢の不動堂」の存続時期は不明であるが、平塚市下吉沢の小字「土堀」~「日影沢」内の二つの尾根上のいずれかにあったものと想定しておきたい。 
 
【付記】
*大磯町寺坂の王福寺の縁起として次のように伝わっている。
 ・旧本堂地は山上にあったと伝わる。【註2】
 ・山麓に王福寺の末寺が立ち並んでいたと伝わる。
 ・旧本堂は永正年中(1505年)に兵火で焼失し、大永年間(1524年)に現在地に移ったと伝わる。
 ・寛永7年(1630年)、現在地で火災にあい、五つの末寺を合併し、山号を「大高山」と改め一山一寺としたと伝わる。【註3】
 
【註2】 その地点は下吉沢の小字「本堂」~「桜沢」の隣接地。
【註3】 「40. 王福寺 薬師如来像(神奈川県中郡大磯町寺坂)」(高見 徹 『貞観の息吹』)の中で、「…(略)・・・隣接する平塚市の八剱神社に伝わる平安時代不動明王立像(重文)は、一時民間に流失していたものだが、元大高寺に伝わった像であるとされており、本寺と関係深い像であることが知られている。」との記述がある。
また、「万代より王福寺」(重田 哲三 『阿波多羅(二)』)の中には、「王福寺は大高山円明院と号し古義真言宗、円鏡寺、延命院、道寛坊、宝持坊、大高寺(大光寺下吉沢にあり ここの不動は松岩寺に寄託)、…(略)…「…(略)…大高寺の不動明王は横浜の古物商に出ていたのを下吉沢の武藤氏が買戻して松岩寺に寄託した」等の話をされた…(略)…」といった内容が記されている。
私には事の真偽を確かめようがないが、「大高寺」と「大光寺」が、ともに地元で”デエコージ”と呼ばれ、伝承が入り混じった可能性があるのかもしれないと感じた。八剱神社の不動明王像や王福寺の薬師如来像(国指定重要文化財 平安時代)が、ともに数奇な経緯をたどりつつも、地域の人々に守られ続けて今に残されていることを喜びたいと思う。 
 
 
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王福寺(大磯町寺坂)の旧本堂跡地とされる梅林
かつて仁王門のあったとされる地点の上を、現在は小田原・厚木道路が走る。そして、そのすぐ南に走る不動川の上を有無を言わせぬ形で新幹線が横切る。平安時代の主要道路も眼下の不動川沿いに通っていたのだろうか。王福寺の薬師如来像なら、当時の景観を覚えているかもしれない。