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私の第三十四夜をつづります。

改めて”不動平”を探し直す(2)

四度目の下吉沢探索から帰ってから、「不動平」と「大光寺」について重要な情報を得た。一つは平塚市博物館から、もう一つは『新編相模国風土記稿』からだ。
 まず平塚市博物館では、大光寺跡とされる地点を教えていただいた。そして『新編相模国風土記稿』には「大光寺」と「不動堂」、さらに「日影沢」の位置までも特定できそうな情報が記されていた。
(私はいつも「仁和寺の法師」のように要領が悪い。知らなかったのは自分だけだった。「不動平」や「大光寺」について、今さら私が調べ回るまでもなく、周知の事柄だったとは…。) 
何より驚いたのは、身近な平塚市博物館のHPに、大光寺跡に残る地蔵像の写真が掲載されていたことだった。そして、博物館で教えていただいた地蔵像の位置は、私が「弁天通古墳群」を撮影した地点の30mほど南にあたることが分かった(近かったことだけが救いだ)。ただ、その地蔵像の位置は、先日歩いた明るい尾根の先端部であり、寺院が建つスペースとしてかなり狭いと思われる。やはり、その東に広がる空間…「弁天通古墳群」周辺が大光寺跡ではないのか。そう考える理由は次の通りだ。
 
   明治16年測量の地図「小磯村」、昭和42年発行の『平塚市明細地図』から:
この尾根の東麓(「弁天通古墳群」周辺)に広がる平坦地の形がかなり特徴的であること。すなわち、この地点に南北200m・東西150mの空閑地を造成するように、尾根の先端部を削り、直線的な南北主要道を矩形に迂回させているように見えること(このスペースであれば、下吉沢の松岩寺と同程度の面積を確保できる)。
 
   『新編相模国風土記稿』「下吉澤村」の記述から:
がんまん川 東寄を流る 幅二間、川の邉に不動堂 大光寺境内、あり、因て名づく、隣村上吉澤村谷戸川の下流なり」
(この記述から、「がんまん不動」・「かんまん不動」と呼ばれる不動明王像が、まさに下吉沢を流れる不動川と一体の存在であることを改めて認識させられた。しかも、「不動堂」は「大光寺」の境内に在ること、その「不動堂」は不動川のほとりに在ることが明記されている。)  
 
以上の情報から知りうる“かつて大光寺や不動堂が存在した位置”について、今度こそ現地できちんと確かめてみる必要がありそうだ(無駄に歩き回るのではなく)。そしてまだ整理できないままの「日影沢」や王福寺(大磯町)に係る疑問点についても、いずれ自分なりの結論を出したいと思う。