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私の第三十四夜をつづります。

再び不動平へ(2)

 昨年来からの”不動平”をめぐる探索の一区切りにしようと、今日、覚え書きとしての地図を完成させた。記憶力の衰えを補うには、形に残すしかないから。
 ただ、思い通りの地図は作れなかった。それでも、下吉沢の山を歩き回り、いくつかの資料を調べて、あれこれと想定した結果を、具体的に地図にまとめる作業は本当に楽しかった。
 12世紀の不動明王像がこれまで、どのような歴史を経て生き続けてきたのか・・・不明の点が多い。転々と佇む場所を変えて、今なお、下吉沢の里にひっそりと残る不動明王像。その足跡の探索は、あくまで現時点での推定にしか過ぎないけれど、自分の足と目で追いかけることの楽しさを学ぶことができた。
 
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 【補記(地図作成後、再確認したこと)】
(1)改めて、『新編相模国風土記稿』の「下吉澤村」の項から、地図と関連する記述を引用させていただく。
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○ 山 西方に在 登二町許
○ がんまん川 東寄を流る 幅二間、川の邊に不動堂 大光院境内、あり、因て名づく、隣村上吉澤村谷戸川の下流なり、
○ 宮下川 西を流る 幅四尺、艮方にて、がんまん川に合す、
○ 澤二 櫻澤・日影澤の名あり 幅四尺、共にがんまん川に落、
○ 八劔明神社 村の鎮守なり、例祭正月七日、流鏑馬あり 村内七歳の男子を撰て執行す、若無れば廃すと云、村持、△鐘楼 寛保三年の鑄造を掛、
○ 山王社 村持、
○ 山神社 大光寺持、下四社同、○第六天社 ○瓣天社 ○牛頭天王社 ○子権現社
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*地図中の②(大光寺跡):不動川に沿う南北道路(明治16年時点)が、  形に東に張り出している。この道以前に、大光寺がここにあったことを示しているものと思う。少なくとも、『新編相模国風土記稿』が記された時代(19世紀半ば)に、川辺の②の位置に不動堂が建ち、不動明王像が祀られていたことは確かと思う。
 
(2)改めて、大高山王福寺(大磯町寺坂)の「王福寺縁起」から、地図と関連する記述を引用させていただく。
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当山は…(略)…その昔はここより五百米ほど行った山の上に、本堂その他のお堂がありました。(略)その山麓に円鏡寺、延命院、大高寺、宝持坊、堂観坊等の末寺が建ちならび荘厳さを誇っていたと思われます。今でもこれらの事実を示す、本堂、薬師下(現在地)、薬師向き(新幹線の付近)、仁王平などの地名が、地番台帳に明記されています。
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*王福寺の末寺とされる「大高寺」は、下吉沢の「大光寺」につながると思われる。地元の人々に”でーこーじ”と呼ばれた寺が、「大高寺」であり「大光寺」であったと推定している。12世紀の不動明王像は、時期・経緯は不明だが、結果的に下吉沢の「大光寺」に伝わって、現在まで地元で守られ続けたものと思う。