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私の第三十四夜をつづります。

再び不動平へ(6)

 2日、下吉沢に向かう。
 今日こそ、大光寺跡に残されている礎石を見ようと、朝から意気込んで出かけた。   
 その礎石について、『平塚市郷土誌事典』(平塚市 1976年)の「大光寺」の項では「…カンマン不動尊は、もと同地の不動平と呼ぶ丘上の堂にあったが、江戸時代に大光寺不動堂に移されていた。明治初年、廃寺とともに不動尊も他所へ移った。いま、大光寺跡に大きな礎石がのこっている。…」とされている。
 近年の博物館による下吉沢地区の石仏調査の際にも、地蔵尊石碑の上面の平地に”礎石のような石”があったと聞く。
 そうした情報をもとに、私が大光寺跡で探した地点は、地蔵尊石碑や、その上の小堂よりさらに一段高い場所だ。切り土したような平坦地だった。尾根上の”不動平推定地”ほどの広さで、本格的な堂宇を建てるには狭いように見えた。草が深く生い茂って、とうとう礎石らしきものは見つからなかった。
 その日の目的は果たせなかったが、「12世紀の不動明王像」周辺の景観の新たな要素を確かめることができた。
(地図上で気になっていた記載要素を、実際に足と目で確かめることは、なぜこんなに楽しいのだろう。)
 大光寺跡の北隣の谷(すなわち”不動平推定地”の北隣の谷でもある)に、不動川に流入する小さな流れと小さな滝を見ることができた(現在は”ため池”や水神碑も作られている)。
 この「弁天通」を抜ける小さな流れは、かつて大光寺の寺域の北辺を区切るものだったのではないだろうか。
 そして、南限は、明治期の地図上で  の字形に屈曲した道に囲まれた部分までだろうか。それは、”不動平推定地”の南の深い谷を「日影澤」とするならば、この沢筋とも重なるように思われる。
 北と南で東流する沢筋、東を南流する不動川。それらに区切られた山陵部が、ある時期の不動明王遷座地だったのだろうと考えている。
 
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”礎石のような石”を探した平坦地から、東(不動川が南流する方向)を望む。もしや、と思った小堂の下は、コンクリートの土台だった。
 
不動川沿いの畑地から、西(大光寺跡の方向)を望む。山稜をかすめるように、小田原厚木道路が横切っている。
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