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私の第三十四夜をつづります。

幻に終わった”不動平”への道

 今春四月、”不動平”はどこなのか、その地点に至る道はどこにあるのか、と調べてきた。そして自分なりに”不動平”の地点、そのルートを想定してみた。しかし今日、三度目に訪れた下吉沢の路上で、その想定が実にあっけなく崩れることになった。
 今日は、明治初年に廃寺となるまで不動明王像が移されていたとされる「大光寺」の位置を確かめたいと、朝から歩き続けた。駅から国道1号線に沿って、丸くうずくまる新緑の高麗山をめざす。花水川を渡り、高麗神社にお参りしたのち、山の北麓伝いに歩いた。暗い林のなかでは、期待したホトトギスの声は聞かれず、ウグイスのさえずりが響きわたる。
 荒れた地獄沢から明るい住宅地に出て、万田貝殻坂貝塚の前を通り過ぎる。真田・北金目台地の開発のすさまじさとは規模が異なるけれど、ここもまた地域の景観は一変してしまっていた。
 出縄の高台から眺める大山が青い。カメラを向けるわずかな間にも、背後で頻繁に新幹線の列車が走り抜ける。文明の開発力・改変力が津波に似たエネルギーを持っているように感じる。じきに大磯町との境界「境橋」に出る。お昼には下吉沢の弁天通に辿り着いた。
 私の”大光寺跡”想定地は「弁天通古墳群」の周辺…小高い丘の下に広がる畑地だ。ここでも、畑地のすぐ前を小田原・厚木道路が横切っている。かつて、円墳群の被葬者が眠り、不動明王像が見守っていた(と想定している)地域を、車だけが滑るように通り過ぎてゆく。
 想定した地点の景観を実際に目の当たりにし、”大光寺跡”としての可能性を自分なりに納得した。そして、さて八剱神社に向かおうとした矢先、たまたま地元の方に出会ったのだった。
 しばらくの時間、そのお話を聞くなかで、四月から探し続けた”不動平”の方角を確認することができた。いとも簡単にあっさりと…。それは私の想定した石祠の方角ではなく、まさに『平塚市地名誌事典』(小川治良 2000)による「日影沢」の方角だった。
  まず、”不動平”や地域の昔のことをご存知の方に出会えた…という嬉しい気持ちが先だったのは確かだ。しかしまた、これまで自分が想定したことが徒労に終わったのだと、拍子抜けした思いも湧いた。
 80歳を越えるというその女性によれば、「(”不動平”に登る道は)私なら今でも何とか見当はつくけれど、よその人にはもうその道は分からないだろう」とのことだった。この集落から丘陵へ向かう道は、「E」の字のように何本かあり、”不動平”には大磯町に近い地点から登る道があったという(「境橋」の手前あたりか)。昔、薪を取るために通った道らしい。
 なお、「大光寺」については、「”デエコージ”と呼んでいた寺のことだろうが、その位置は分からない」とのことだった。そして”お不動さん”について、二度目の盗難にあった後、再び無事に取り戻すことができるまでの経緯について、生き生きと語ってくださった。【註:最初の盗難は昭和6年。二度目は平成7年】
(”お不動さん”が見つかった当時、ご主人が真新しい毛布を持って、警察署の方と一緒に、発見された長野県まで車でお迎えに行ったこと、ご主人が毛布にくるまれた”お不動さん”を大事に抱えて帰ってくるのを、寝ずの番で家で待っていたこと、ご主人がのちに「あのように国宝を抱えることができたのは自分くらいではないか」と語っていたことなど・・・。)【註:昭和8年に国宝指定。昭和25年に国指定重要文化財となる】
 地域の方から直接にお話をうかがったあと、八剱神社の境内で休みながら、”お不動さん”がこの21世紀の今も、この地域の方たちにとっていかに大切な存在であることかを思った。
 また、あの少年のような不動明王像は、かつてそうだったように、本来は下吉沢の丘陵上の高みにこそ祀られるべきなのだろうと思った。そして、その場所は、あの石祠のある清らかな地点ではなくて、今は行き着くことが困難な「日影沢」の「不動平」なのだと納得した。
 
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出縄から下吉沢へ
 
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想定”大光寺跡”…ここもまた私だけの夢の跡になるのだろう。
 
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「弁天通古墳群」周辺の高台から、「日影沢」にあるという「不動平」の方角を望む…いつか失われた道を辿れる日がくるだろうか。