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私の第三十四夜をつづります。

”不動平”への道(4)、追記:「霧降瀑碑」と二宮氏と「宮座」

 昨日、8日の下吉沢で調べ残した道を改めて歩いてみた。
 ”不動平”に向かう別のルート・・・東向きの八釼神社の南脇から登る道で、このルート上に139.6mの三角点があるはずだ。しかし結果として、その三角点を確認できないまま、前回の”不動平”に行き着いてしまった(途中で二手に分かれた山道の左手を選んだが、右手の道だったのだろうか)。
 ただ、八釼神社から”不動平”想定地への最短ルートであろうことは確認できた。もし12世紀の不動明王像が、下吉沢の不動平と称する地に祀られていたことが確かであれば、いかにも、その不動平への道として歩きやすく自然なものであるように感じた。
 14日の再びの”不動平”は掃き清められ、石祠には緑艶やかな葉に載せて塩が供えられていた。8日から14日までの間に神事があったのだろう。東向きの石祠を据える基壇として、結界を示すかのように土留めがされているが、やはり「不動堂の敷石」は確認できなかった。帰路は、前回誤まった№76鉄塔のルートを、霧降りの滝へと向かった。あっけなく霧降りの滝に着く。8日の悪戦苦闘は何だったのだろう。
 14日の霧降りの滝の水量は落ちて、もう一つの滝も姿を消していた。同行してくれた友人が足元を見て「宝永の火山灰かな?」と言う。滝壺の前の地面には黒くざらついた堆積物が顔を出している。『宝永の噴火で、この滝も流れを止められたことがあったのかもしれない』と思った。”不動平”想定地(註)に佇つ宝永八年の石仏を思い出しながら、静かな霧降りの滝をあとにした。
 【註】今回の「”不動平”への道(1)~(4)」には大きな問題点が多く残っている。そもそも『平塚市地名誌事典』(小川治良 2000)における「日影沢」とは異なる地点…400mほど北…を”不動平”と想定して出発している。
 ただ、あえて異なる地点を想定した理由として、かつて不動明王像が移されたとされる江戸時代の大光寺(現在は廃寺)について、大光寺が管理した神社の中に「弁天社」があることから、大光寺は下吉沢の小字名「弁天通」近辺にあったと推定していること(その地点は『平塚市遺跡分布地図』(2007)では遺跡番号49「弁天通古墳群」・遺跡番号144「原畑横穴」に相当する)、さらに、今回の”不動平”想定地の北の谷から発する小さな流れが、「ため池」を経て「弁天通」を抜け不動川に注いでいることなどを、今回(現時点)の想定理由として挙げておきたい。イメージ 1
石祠の基壇(”不動平”想定地)
 
イメージ 3
「霧降瀑碑」
 
【追記】「霧降瀑碑」と二宮氏と「宮座」
 平塚市博物館のHPでは「…吉沢村の人で売薬を業とする二宮石翠が碑文を依頼し、天保4年(1833)5月建碑されたことがわかる…」と掲載されていた。ここにも、二宮氏の名が刻まれているのだった。”不動平”想定地の石仏とこの碑から、少なくとも18世紀初頭から19世紀前半まで、霧降りの滝から”不動平”にかけての一帯が吉沢の人々に崇敬され続け、21世紀初頭の今日に至っていることを実感する。そして、この可視的な崇敬の流れは、おそらく12世紀の不動明王像を源として発して今なお流れ続けているのだし、その900年近くの長い時間が不動明王像のなかで脈打ち続けているのだと想像する。
 また、『平塚市民俗分布図』(平塚市博物館市史編さん係 1993)の「宮座」(宮座が確認できる所)の分布図では、市内4つの宮座として、真田神社(真田)、熊野神社(土屋)、八釼神社(下吉沢)、八釼神社(根坂間)の4社が挙げられている。そして「これらの宮座は大磯丘陵に当たる村々に存在しているのが特色である。」と述べられている。県内でも例の少ない宮座が下吉沢の八釼神社で確認されていることは、「霧降瀑碑」や”不動平”想定地の石仏に二宮氏の名が刻まれていることと大きく係っているように感じた。
 なお、この日、初めて目に入った瀑碑の碑文の中に「不動尊石像焉祭」の文字を読み取ることができた。その不動尊の石像については、また別の機会に確かめてみようと思う。イメージ 2