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私の第三十四夜をつづります。

”不動平”への道(3)、追記:”不動平”と二宮氏

 午後は「”不動平”から、不動川の源である鷹取山への道」を歩くことになる。
 標高160mほどの ”不動平”想定地(註1)から尾根道をたどって標高219mの鷹取山へと進む。右手に目立って大きな樹が立っている。近寄ると、木の陰に石祠が据えられていた。”不動平”の石祠のように繊細な文様(武田菱や六弁の唐梨のような意匠)は彫られていない。どのような祈りをこめた祠なのだろう(註2)。 
 
【註1】  『平塚市地名誌事典』(小川治良 2000)において「通称「不動平」と言われている平坦地状の所」とされている「日影沢」の平坦地の標高は120mである。今回の”不動堂”推定地とは、地点も標高も異なっている。あくまで八釼神社により近い地点にこだわると、八釼神社との最短ルート上に三角点139.6mの地点がある。次回、八釼神社からこの三角点を目指して確認したいと思う。 
【註2】 後日、この石祠を確認した。私に読み取れる銘は「大正十二年四月十日 下吉沢氏子中」のみだった。「大正十二年」・・・この年の秋には関東大震災の被害ががこの地にも及んだことだろう。
 
 この道の先は大磯町との市町界に重なったのち、やがて元のハイキングコースに交わる。大磯の町と海が垣間見えるなだらかな道が、次第に木々に視界をふさがれて荒れてゆく。踏みしめる足元の境界杭が心強い。
 ようやく送電鉄塔№73・№72を通過する。ここからハイキングコースに入って鷹取山へ向かい、折り返して日之宮神社を経て、再び”不動平”に立ち戻ることになる。
 こうして午後の道を歩きながら素直に思う。平塚の相模国府と大磯の国府推定地とを結ぶ山あいの道には、現代の今も浄らかな空気が残っているようだと。そして12世紀という時代においてならば、山あいの道には海辺の道とは別性格の意味があったのだろうと想像する。
 鷹取山まで足を伸ばして折り返した疲れのためだろうか、注意力を失って、最後にまた道を誤まった。”不動平”から八釼神社の南側に下りるつもりが、松岩寺の裏手に出てしまう。ただ、間違えたおかげで、白い菜の花畑と、のどかな大山の姿を眼にすることができた。
 ゴールの下吉沢の八釼神社をあとにして、収蔵庫内に安置されている不動明王像の前を通り過ぎる時、いつかもう一度”不動平”想定地への最短ルートをたどってみようと思った。
 
大きな樹と石祠                           道端のヤマブキ
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大磯の町と海(”不動平”と№73鉄塔の中間地点)
 
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下吉沢の畑から望む大山
 
【追記】”不動平”と二宮氏
 ”不動平”の六十六部供養の石仏に記された「二宮氏」について何か分かるだろうかと、11日の今日、図書館で少し調べてみた。
 ”不動平”という地と係りそうな”二宮氏”については、『新平塚風土記稿』(高瀬慎吾、昭和45年 平塚市教育委員会)に「二宮氏系譜」という文章があった。
 その『新平塚風土記稿』では、上吉沢の二宮家に伝わる”二宮氏系譜”をもとにして次のように書かれていた。「・・・これらによると同家は相模平氏の一族中村ノ宗平の四男朝平(友平と書いたものもある)の後裔である。宗平は平安時代末期のころ相州足柄上下両郡に跨った中村の地に館を持って六男二女を生んだ。太郎重平は家を継ぎ、次郎実平が土肥(湯ケ原)の地に、三郎宗遠は土屋(平塚市土屋)に、四郎朝平が二宮の地に分支しそれぞれ在名をとって姓とし、土肥氏、土屋氏、二宮氏を称した。・・・二宮氏系譜によると二宮ノ四郎朝平から二宮太郎氏まで三〇代の長きに亘り、それがともかく一巻にまとめられていることは珍しいことと言わねばならない。中村ノ宗平ノ四男二女の後裔は平塚市とその附近にかなり散在しているが、古い系譜を所持している家は極めて少ない。その意味から言って二宮家に伝わって来たこの系譜一巻は貴重な資料の一つとして保護する必要がある。」 
 次に明細地図で、上吉沢の地域に”二宮氏”が実際に多いことも確認した。しかし、12世紀に生きた一族の後裔が21世紀の現在も、地域に残り続くものなのだろうか・・・。
 ただ今回、上吉沢から、不動川支流の宮下川沿いに歩き始め、霧降りの滝を経て”不動平”と推定する地点に行き当たったこと、そして、その”不動平”推定地で、”二宮氏”銘の石仏に出会ったことは、私にとって嬉しい成果だった。12世紀の不動明王像が、かすかな糸で中村氏とつながったのではないか(証明することはできないけれど)…そんなふうに感じている。