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私の第三十四夜をつづります。

”不動平”への道(2)

 12世紀の不動明王像と"不動平"とが切り離されて久しくなってしまった21世紀の今も、この地が地元の人々に崇敬され続けていることが、石段の新しさなどからうかがわれる。
 頂上に登りながら、『あの少年のような不動明王像が、12世紀の新旧相模国府を守るように立っていたのは、この場所なのだろうか』と心躍らせる。頂上部は面積にして100㎡に満たないほどのごく狭小な平坦地だった。周囲は木立に囲まれ、やや北寄りに石の祠が東を向いて置かれていた。傍らには木洩れ陽を受けながら石仏が並んでいる。その中の一つは六十六部供養のものらしい。宝永年間に造立され、静かな祈りの形を今なお美しく残している。18世紀初頭、この地が聖地として崇敬されていたことを思う。
 そして、木の間隠れに青い海も望むことができた。12世紀の不動明王像は、不動川に囲まれた山あいから、余綾郡域の南に広がる青い海を見ていたのだろうか。
 一月にすでに記したように、「日影沢」について『平塚市地名誌事典』(小川治良 2000)では、「日の当たる山稜頂上部の標高120mの地は不動平と言われる平坦地状で、カンマン不動が祀ってあったと言われ、その敷石が現存している。」とされている(註1)。かし今回、それと分かる敷石状のものは見当たらなかった。仮に石祠の位置が相当するのであれば、南面する小堂だったのかもしれない。
 
 【註1】『平塚市地名誌事典』に掲載された小字名「日影沢」は、今回の”不動堂”推定地から400mほど南に位置する。本来なら、この地点をまず調べる必要があった。ただルートが無いこと、八釼神社から離れ過ぎるように思われることから、東麓の集落からのルートが残る今回の地点を推定した。
 
 もし不動堂というものがこの想定地に建てられていたならば、大きくても3間・3間ほどだろうかと想像する。そして、この地点が霧降りの滝を控え、眼下に宮下川と不動川を従える絶妙な立地にあることを改めて思う。
 聖地を外れた明るい道端で昼食をとりながら、当初のプランを修正した。この”不動平”想定地から大磯の国府推定地へと向かうには鷹取山を通らなければならない。やはり№73№72鉄塔を抜けて、鷹取山へ向かってみる必要がありそうだ。八釼神社に下る道とは逆方向に大きく迂回することになるが、春の日は永くなっている。午後の時間はたっぷり残っているのだから。
 
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”不動平”想定地へ。
 
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この場所が”日影沢にある不動平”なのか?
 
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”不動平”想定地にたたずむ石仏
 「奉造立大日尊六十六部供養札塚供養佛 宝永八年辛卯暦正月十五日施主二宮氏」と読めるか。「施主二宮氏」の銘は、この地が余綾郡との境界域であったことを改めて意識させる。宝永八年にはまだ、宝永四年の富士山噴火による被害が大きく残っていたことだろう。18世紀初頭の石仏の施主が”二宮氏”となっていることは興味深いことだ。