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私の第三十四夜をつづります。

追記:「成事智院」(高瀬慎吾)から

 

1983年、高瀬慎吾氏は「成事智院」と題したコラム『広報ひらつか』№378 1月号 1983年1月15日発行も書かれているので、そこから短く抜粋・引用して載せておこうと思う。
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 成事智院は鶴峯山八幡宮(元平塚八幡宮別当をしていた真言宗古義の寺である。
 この寺は、もと東八幡の小字上高間にあって高間山と号していたが、近世に入ってから八幡大門(明石町)に移り、山号を鶴峯山と変え、当時八幡宮別当をしていた等覚寺とかわったのである。
 この寺は既に廃されて無く、開山、開基、中世までの歴代住職なども伝わっていないが、八幡宮のもとの所在地をうんぬんし、更に大住国府の所在地を推定しようとする者にとっては欠かせない存在として前々から注目されていた。(中略) 14年(注:慶長14年、1609年)、頼慶の命によって、これを八幡宮別当とし、等覚寺を末寺にした。(後略)
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1967年の前回のコラム(「實雄法印の塔」)から16年後、高瀬慎吾氏の考えは変わっていないようだ。
氏は、成事智院と八幡宮との係りは、あくまでも1609年の成事智院移転からスタートしたものであり、八幡宮は成事智院とは別個に(コラムでは、ここまで明確には書かれていないけれど)、当初から現在地に所在していたとの想定を、シンプルに淡々と書かれている。

またこのコラムでは、大住国府所在地の推定にとって、八幡宮の位置というものがその手掛かりの一つであったことに言及されている。
このコラムが書かれた1983年当時、すでに四之宮下郷・上郷の調査(1979・80年から始まった平塚市遺跡調査会による129号線道路拡幅改良事業に伴う発掘調査)の報告も出始め、高瀬氏も四之宮周辺の考古学的成果を見聞していたことと想像するが、八幡宮所在地は当初から不変…との氏の想定は揺らいではいないのだ。

確かに、現在の八幡宮は標高13mほどの砂丘上にあり、その自然立地条件は、相模川に近接する「上高間」より優れているのだ。
また、国府中枢域から2㎞ほど離れてはいるが、奈良時代の国庁推定地(現在の大念寺一帯)平安時代国司館推定地(現在の高林寺一帯)の南西の地に位置することも立地理由の一つになるかもしれない(この点では、「上高間」も同じように、それらの”裏鬼門”に位置しているが…)

さらには、現在の八幡宮の位置から見れば、『更級日記』の作者が歩いたと想像する海辺沿いの道筋(当時の海岸線から1㎞ほど北を走る現在のJR東海道線ルートが相当するのだろうか?)にも近く、また、近世の東海道筋も250mほど南を通ることになる。
八幡宮の勧請に際し、国府域に近接した場所を選ぶべきか、海辺沿いの往来筋に近接した場所にすべきか、迷うところかもしれない…)。

再び、堂々巡りになってしまった。
そもそも、八幡宮の勧請は、いつ、誰によって、何のためになされたのか?
国府移遷は、いつ、誰によって、何のためになされたのか?
八幡宮のもとの所在地をうんぬん」してきた素人の疑問は、さらに増えてゆくばかりだ。