enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

相模国庁域から八幡宮へ

 24日、久しぶりに四之宮・八幡の地域を歩いた。これまで数多く訪れた国府域。何回訪れようと、そのたびに、自分の眼が何も観察していない、自分の頭が何事も正確に把握していない、と知ることになる。
 ただ、今回の探訪会では、配布資料の新旧地形図を対比して見ること、実際の砂丘の高まりや凹地などを眼と足で確認するように促された。結果、各遺跡の現在の立地状況を改めて見直すことができた(ように思う)。
 さらに、見学の合間には、日頃の個人的妄想の産物・・・「11世紀後半の平塚における”旧八幡宮”」・・・が立地したと想定される”上高間”の現状地形も確かめることができた。
 相模川氾濫によって移転跡地さえも流失したとの伝承が残る八幡別当の成事智院。その幻の寺院がこの”上高間”の地区にあったとしても、現在は”八王子道”の東の崖線に沿った家並みを残して、沖積低地上の遺構の大半は根こそぎ失われてしまっているだろう。別当寺院の寺域はもとより、”旧八幡宮”の在処の手掛かりは今のところ見つからない。
(補注:『平塚地名考』〔今井 英雄 1973〕の「上高間」の項には、「昔九三四、九四八、九五五番地に成事智院という八幡神社の別當寺があったが相模川流亡のため八幡新宿等覚院へ慶長十四年移遷し後幾何ならず廃寺になったといわれている」と記載されている。八幡の934・948・955番地の範囲は、昭和42年版『平塚市明細地図』では”八王子道”の東の家並み…現在の四之宮郵便局の向かい側、南北120m東西40mほどの短冊状の狭い範囲・・・に該当するように思われる。)
 帰り道、現在の八幡宮に立ち寄るつもりが、疲れて果たせなかった。梅雨の晴れ間の今日、改めて平塚八幡宮を訪れた。
 石清水八幡宮の所領であった「旧国府別宮」、頼朝が神馬を奉納した「八幡宮」、『廻国雑記』の道興が額づいた「八幡といへる里」の神社にはいつ行き着けるだろうか。
 
相模国庁域を東西に横断する湘南新道  道路の先は相模川を渡る湘南銀河大橋。  
イメージ 1
 
国府域東端を走る八幡・四之宮線  右手の家並みは上高間の崖線上に並んでいる。この道は数百m先で相模国庁域を縦断する。相模国庁域は十字路の真下なのだ。イメージ 2
 
現在の平塚八幡宮(平塚新宿)
イメージ 3