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私の第三十四夜をつづります。

内裏相模についての補記

 12世紀末の歌合に足跡を残す”内裏相模”とはどういう人なのか・・・その夫は相模守ではなかったか・・・との妄想から、大内惟義の名が浮かんだ。
 その後、「大内惟義について」(『鎌倉幕府御家人制度の研究』  田中 稔 吉川弘文館 1991)という論考のなかで、大内惟義の1200年前後の動きを知ることができた。この論考をもとに、当時の惟義と父・義信の動きを列記すると次のようになる。
 
【義信】                      
 1184(元暦元).5.21 義信、武蔵守に任ぜられる   
 1195(建久六).7.16 (武蔵国守として国務を司る)
 1200(正治二).2.26 (すでに武蔵守を辞している)
 1203(建仁三).10.8以降~1207(承元元.2.20)にかけて、出家・死亡か             
【惟義】

1184(元暦元).2.5 惟義、一ノ谷で義経に従う
       .3.20 伊賀国守護
       .5.4  伊勢国で志太三郎先生義広を討つ
1185(文治元).8.16 相模守
1186(文治二)頃 (義経追捕のため、在京か)
1187(文治三).3 (この時点、美濃国守護)
1189(文治五).7 (義信と共に頼朝に従い奥州出陣)
1199(正治元).2 (在京)
1200(正治二).1 (京と鎌倉を度々往復か)
1200(正治二).2.26(この時点、惟義は相模守)
1201(建仁元).4 (この時点、駿河守)
1204(元久元).4.12 正五位下となる
1212(建暦二).3.20(在京)
1215(健保三).6.7  後鳥羽院御逆修の進物を納める
1219(建保七).1.27 (この時点、修理権大夫)
1219年~1220(承久二)年頃にかけて死亡か 

 
 残念ながら、田中稔氏の論考のなかに、大内惟義の妻(藤原秀忠女とされる)についての記述は見られなかった。しかし、正治二年(1200)年末の石清水八幡宮若宮歌合の時点で、大内惟義が相模守として京都と鎌倉を行き来していたことが分かった。
 土御門天皇に仕えた内裏相模。在京御家人として後鳥羽院との関係を築いた相模守大内惟義。1200年という時点で、果たして二人の間に接点はあったのだろうか。
 【追記:2012.10.9】
 内裏相模と関連するかは不明だが、『親鸞聖人正明伝 巻一上』に、”玉日姫”(九条兼実の娘で親鸞聖人の妻になったとの伝承がある)の侍従として「相模侍従」が登場する。内裏相模の年代と矛盾しないことに関心をもった。また、2012年6月には、京都市の西岸寺の発掘調査で、親鸞の妻との伝承がある”玉日姫”の墓から、人骨と骨壺が見つかったという発表があったようだ。