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私の第三十四夜をつづります。

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(2)

 中世の「八幡」にあった神社(「八幡宮」)に係わる資料として『廻国雑記』という紀行文があることを知った。道興という京都の僧侶が、1486~87年にかけて東国を旅して著したという紀行文のなかで、相模国内の各地についても断片的に触れられていた。
 平塚の「八幡」と「八幡宮」についての記述か、とされているのは、
    
     「(前略) 八幡といへる里に神社侍り 法施のついでに
           あづさ弓 八幡をここにぬかづきぬ 春は南(恵み?)の山に待ち見む    (後略)」
 
 私が、「旧国府別宮」の「八幡宮」は(現在の「平塚新宿」の地ではなく)「八幡」の地にあったのでは、と憶測する時期は、中世期のいずれかの時期までだ。とすれば、この15世紀末に道興が詠んた「八幡」の神社は、相模国府域東端に位置する「八幡」の地にあった可能性がある。
 しかし、私の乏しい読解力では、歌の後半で”南(恵み?)の山”が詠まれていることが良く分からない。もし実景であるとすれば、神社の南に山があったのだろうか。現在の「八幡」、なかでも八幡別当坊の成事智院があったとされる「上高間(かみたかま)」は標高5mほどの相模川の沖積低地で、古代においては、さらに低い低湿地が広がっていたと考えられる。
 一方、この歌の神社が、仮に現在の「平塚八幡宮」が位置する「平塚新宿」の地域(「八幡」から分かれる前であれば地名は「八幡」のまま)にあったならば、”南の山”は、現在の「平塚八幡宮」内に残る砂丘の高まりなどが相当するのだろうか。「八幡」について調べるなかで、さらに混乱が深まっていくようだ。
(補記:『廻国雑記』では、この記述のあと、剣沢の氷、蓑笠の森の社、〔大山の〕ふたつ橋、雪の大山寺、雪雲の日向薬師、小野の里、半沢の薄氷、霞の関などを詠んでいる。季節は冬。作者の春を待つ思い、都への望郷の思い(そして都の春への思い)が強く感じられる。「八幡」の里の歌の「春は南の山に待ち見む」も、この流れのなか…東国から遥か南の国の春を待ちわびる思い…にあるのかもしれない。これも、「南の山」ではなく「恵みの山」であった場合は成立しない解釈なのだが。)
 
 「八幡」をめぐるうち、この『廻国雑記』を知り、次の記述にも出会うことができた。
 
  「(前略) ここ (注:藤沢の道場。清浄光寺-遊行寺-) を立ちて 小田原といへる所へまかりける道に 花水川といへる河を渡 りて 
        咲くとみえ ちるとみゆるや 風わたる 花水川の波のしら玉    (後略)」
 
 21世紀に生きる私にとって、ごく親しい「花水川」の水面のゆらめきが、はるか15世紀の旅人によって、生き生きと歌に詠まれていた。思いがけない貴重な収穫のように感じた。
                                                                                                                      イメージ 1
 花水川河口