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私の第三十四夜をつづります。

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(1)

 5月は『相模集』の世界、11世紀前半以降の相模国府の世界のなかで、うろうろ・もやもやしながら時間が過ぎた。
 …12世紀半ばの相模国「旧国府別宮」について、その「(石清水八幡宮の所領)別宮」が成立したのはいつか。その八幡宮の勧請に(前身的な八幡宮と仮定)、11世紀代の相模国府や相模国司(源頼義・義家など)が係わるのか。
(追記:その後、源頼信源義家源為義相模国司任官について、不明な点が多いことが分かった。なので、もし、八幡宮勧請に係る可能性がわずかにせよ残るのは、源頼義に絞られることになりそうだ、)
 そして、相模国府内の八幡宮成立を11世紀後半までさかのぼり、その位置を「八幡(やわた)」の地…相模国府域東端…と仮定してみた。
 が、現時点で、次のような大まかな流れを把握するにとどまっている(『角川日本地名大辞典』-神奈川県-などを参考)。
 
 ① 12世紀半ば(1158年)には「旧国府別宮」があること。
   (その所領の位置は不明。)
 ② 12世紀末(1192年)には、「八幡宮」や「八幡」の地名があること。
   (前者は現在の「平塚八幡宮」に相当する…その位置は不明…、後者は平塚の地名として残る「八幡」に相当するか、と推定されている。)
 ③ 13世紀中葉には、
   「…「古国府(注:旧国府=平塚)預所による安居守役の対捍につき、幕府が国衙在庁を支配する三浦頼盛に先例厳守を命じた・・・」(「中世神社史料の総合的研究-神国思想と石清水八幡宮を中心に-」 鍛代敏男 2010)とされる。
 ④ 15~16世紀代には、「八幡郷」、「八幡荘」(注:③をふまえると、「旧国府別宮」から荘園が成立したか?)があること。
 ⑤ 17世紀代には、「八幡新宿」があること。
 ⑥ ⑤をふまえ、江戸期~明治期に、「八幡村」と「平塚新宿村」があること(「八幡村」から分かれた年代は不明)。
 ⑦ 現在の「平塚八幡宮」は、「八幡」ではなく、(「八幡」から分かれた)「平塚新宿」の地にあること。
 
 また、「八幡宮」について、16世紀末には「八幡郷」にあり、50石の社領を持ち、近世期には「八幡」・「平塚新宿」・「馬入」3村の鎮守として、50石のうち26石5斗が別当寺の等覚院に充てられていたこと。「平塚新宿村」に相当する地域は、幕末期に50石の鎮守八幡宮領を持っていたこと。
 さらに、慶長年間(1596~1614)に徳川家康が「八幡宮」社殿を新築したこと。同じく慶長14年(1609)に「八幡宮別当職が成事智院から等覚院に移されたこと。そして、その成事智院は「八幡」の「上高間」周辺にあったと伝承されること(現在の平塚八幡宮は、「上高間」の南西約2kmに位置している)。
 
 こうした流れから、再び堂々巡りが始まる。
 現在の「平塚八幡宮」は、近世期になって現在位置の地域に移転したのではないかと。その契機の一つとして、相模川の洪水などが係わるのではないかと。そして、この相模川の洪水が及ぶような地域、すなわち相模国府域東端の地…現在の「八幡」の地域について、もう少し考え続けてみたいと思う。