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私の第三十四夜をつづります。

追記:『平塚市史』による「成事智院蹟」

 

これまで、11~12世紀の相模国府の景観を思い描くなかで、12世紀代の八幡宮相模国府中枢域の「八幡」の地に置いてイメージしてきた。
そして、その「八幡」の地(上高間)にあった「八幡別当 成事智院」が、1609年、現在の平塚八幡宮の地(旧・八幡新宿)に移った…そのようなイメージが固まりつつある(二次情報の断片をもとにしたイメージとして…)

一方で、「八幡別当 成事智院」と「八幡宮」を同一視して、「八幡別当 成事智院」の位置をそのまま「八幡宮」の位置と考えて問題ないのだろうか?という、素人の疑問があった。
つまり、「八幡宮」の遷座が先行していた状況のなかで、「八幡別当 成事智院」の移動が何らかの理由で後れてしまい(もしくは「八幡別当」の在り方に変化があったのか?)、1609年になって「八幡宮」の遷座(旧・八幡新宿)へと移ることになった…そのような可能性はないのだろうか?という疑問だ。
(私が知り得た断片情報のほとんどが、別当寺の移動に関するものだけで、八幡宮の遷移時期を明確に記したものが見当たらず、モヤモヤが消えない。そのような文書が残っていればなぁ…と思う。)

で、25日の講演をきっかけに、平塚市史 13 上 別編 寺社(1)』(p288~289)を再読したので、抜粋・引用する形で留めておきたい。
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(四)成事智院蹟
 成事智院は元、八幡 字 上高間 九四八番地から九三四番地(現在の東八幡四丁目辺り)に所在し(『皇国地誌残稿』)、高間山と号していたと伝わる。(中略)寛平二年(八九〇)十二月、成事智院 文瑞尊者(天暦十年〈九五六〉五月朔日寂)が鶴峯山八幡宮平塚八幡宮別当となったともいう(四之宮観音堂 世代一覧)

 天正三年(一五七五)九月二十九日付けの「相州諸真言衆法度條々」(『市史』1資料128)や文禄五年(一五九六)二月二十九日付け「相模真言宗本寺連盟請文」(『市史』1資料161)に、相州七か寺の一つとして「八幡 成事智院」が見える。この相州七か寺は、慶長十二年(一六〇七)十二月五日付けで東寺 宝菩提院の禅源が七か寺に報じた文書小田原市 蓮上院文書)によると、弘治三年(一五五七)に宝菩提院と本寺契約を結んだ(坂本正仁「中世南関東における古義真言宗の本寺関係」(『密教学研究』第二十号)

 上高間に在った当院は相模川の度々の洪水で河中に没するなど疲弊していた。慶長十四年十一月に高野山金剛峯寺遍照光院 頼慶の命によって、成事智院は八幡新宿の鶴峯山八幡宮別当 等覚寺の地に移され、八幡別当 成事智院となり、これまでの等覚寺の名称は、成事智院の末寺の号とされた(『市史』4資料132)。後に、成事智院は等覚寺と合併して「鶴峯山 成事智院 等覚院」となったというが、やがて専ら等覚院の名称が使われるようになる。(中略)

 上高間に在った成事智院 最後の住持 實雄は、天文十三年(一五四四)足柄下郡中村のうち下原村小田原市中村原)の吉野国左衛門の子として生まれた。八歳で仏門に入り、十六歳で高野山に入り真言の宗風を究め、等覚房と号した。そして宝金剛寺小田原市国府津の住持等を務めた。さらに、成事智院 住持のとき、徳川家康により大山寺伊勢原市の学頭に任命され、八大坊に常住した(『郷社八幡神社御由緒稿』〈城所 川口妙香家文書〉)。家康が慶長十年に大山の大粛清に着手し、實雄の学徳と手腕を評価したためである。

 寛永十年(一六三三)の『諸宗末寺帳』には、鶴峯山八幡宮の供僧として成事智院があり、恐らく三石の社領を充てられている(第一章 表2)。慶長十四年に頼慶が投じた一石により成事智院は八幡別当となったはずであるが、ここでは別当からはずれて供僧となっている。(後略)
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以上からは、相模川の水被害を受けながらも、1557年時点で「相州七か寺」の一つとして存在感を示し、1575・1596年時点でも「相州七か寺」の一つ「八幡 成事智院」が存在したことを確認できる。
慶長年間〔1596年~1614年〕には徳川家康が参詣し社殿を再建したとも伝わり、慶長10年〔1605年〕には成事智院 住持の實雄が大山寺学頭となっている。慶長14年〔1609年〕の「上高間」から「旧・八幡新宿」への移転のきっかけとは何だったのか?)

で、新たに気になったのは「慶長十四年に頼慶が投じた一石により成事智院は八幡別当となったはずであるが」の部分だ(”一石を投じる”には何かしらの事情があり、”一石を投じる”ことで、何か波紋が広がったのだろうか?)
慶長十四年に八幡別当となったはず」ということは、慶長十四(1609)年時点では八幡別当ではなかった、ということなのだろうか?
(1605年に住持の實雄が大山寺学頭に任命されたことと関係するのだろうか?)

やはり、素人の読解力・理解力には限界がある。今後は、専門家の研究成果を待つしかないのかな…と感じている。