10月1日の朝、台風一過の青空が広がった。
待ちに待った朝…山梨県に残る慶派・円派の仏師の手になる仏像、そして”蓮慶”作とされる仏像を訪ねるツァーに参加する日だった。持って来いの天気だった。
しかし…台風の爪痕について能天気でいたのは間違いだった。
6時半、平塚駅の改札口前は人々であふれ返っている。
にわかに鼓動が早まった。頭の中で暗雲がぐるぐると渦巻きはじめた…JRが動いていない…。
ここで運転再開を待つのは、座して”置いてけぼり”を待つということだ。
すぐに、バス・私鉄の4線を乗り継いで鶴見に向かうことにする。
本厚木~海老名~横浜の乗り継ぎでは、走るべきは走り、駆け上がるべきは駆け上がり、久しぶりに死に物狂いになった。
ただ、そんな個人的な必死の事情とは無関係に、バスも電車も淡々と…急がず慌てず…進むだけだった。
飛び乗った相鉄線の車内で時刻を何度も確かめながら、『あぁ…とうてい間に合いそうもない…』と観念した。”置いてけぼり”を覚悟した。
それでもしかし、私は”置いてけぼり”にはならなかった。
事務局の判断で、集合時間が1時間延長されたのだ(その朝、必死な思いをしたのは私だけではなかったらしい…)。
9時半、私は山梨県に向かうバスのシートに座っていた。
3時間に及ぶ悪夢から醒め、こうして無事に出発できるとは…。
何という疲労感と安堵感…すでに一日分のエネルギーを使い果たした気分だった。
バスは出発遅れと渋滞のため、予定時間を大幅に書き換えて甲府盆地に入った。
訪ねた寺は三つ(現在、三寺とも真言宗智山派)。
巡った順番に、
天禄2(971)年、三枝守国が建立したとされる。本堂(薬師堂)は柱の刻銘から、弘安9(1286)年に立柱されたことが分かっている。本尊・薬師三尊像は平安初期造立。
(ご住職の詳しい説明のなかで、「安田義定」が”新羅三郎義光の孫”と伝えられていることを知った。また、彼の屋敷が鎌倉の大倉幕府付近にあった、ともうかがった。12世紀の甲斐国に生きた「安田義定」という人が、にわかに身近な人に感じられた。)
保元2(1157)年、大野重包 しげかね が再興、賢安上人が中興開山とされる。
三寺について、拝観した仏像群は、
◆大善寺
:薬師三尊像*(平安時代初期)
◆放光寺
*阿形像・吽形像
:木造大日如来坐像(12世紀後半)
◆福光園寺
:石造吉祥天立像
:木造香王観音立像(平安時代)
大善寺本堂(薬師堂):
張りめぐらされた五色幕、境内に飾られた鉢植えのブドウなど、御開帳の華やかな雰囲気が漂う。また、公開されている薬師三尊像を守るように、堂内では護摩が焚かれていた。
大善寺薬師堂の屋根(寄棟造・檜皮葺):
重厚な屋根であるのに、反りは軽やかで小気味良い。頂上の”越し屋根”のような飾り屋根が印象的だ。
大善寺境内からの眺め:
金剛力士像を擁する放光寺仁王門:
「高橋山」の山号が掲げられる門には、264cm余の仁王様が足を踏ん張り、見得を切って控えている(今回、写真撮影が許された唯一の貴重な像)。
仁王門の阿形像(伝・浄朝作):「浄朝」は奈良仏師の成朝か、と考えられているようだ。
仁王門の吽形像(伝・浄朝作):両者を見比べて、仁王門の右左を行き来する。両者とも、明るく?親しみやすい?表情に見えてくる。
秋の光のなかの放光寺本堂
笛吹川を東へ渡る(バスの窓から):
台風の雨のためだろうか、水量の豊かな流れだった。
夕方の光のなかの福光園寺本堂:
木が倒れたり停電が続く状況のなかをお邪魔した。
暴風の夜を経た今、本堂は夕方の光を受けて静かに落ち着いているようだった。
福光園寺境内からの眺め: