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私の第三十四夜をつづります。

伊勢山台の「聖観世音菩薩立像」

 17日、9月の現地説明会で訪れたばかりの川崎市千年の伊勢山台へ、再び出かけた。能満寺で公開中の「木造聖観世音菩薩立像」を拝観するためだ。(併せて現地公開特別講座も拝聴することができた。)
初めて訪ねた能満寺は、伊勢山台の南中腹、標高30mほどの高みに所在していた。
(ここからさらに10mほど高い台地上の北西に、9月に見学した影向寺、北東に橘樹郡衙推定地が控えている)。能満寺は古代橘樹郡官衙・寺院の至近距離に立地していたのだ。

古代橘樹郡衙については、9世紀中葉以降の姿が何も見えていない。その橘樹郡衙推定地と同じ伊勢山台に建つ能満寺に「聖観世音菩薩立像」が残されていること、しかも影向寺薬師如来坐像11世紀、平安時代後半)より遥かに遡ることを、9月の現地説明会後に知った。そうとあっては、この公開の機会を逃すわけにいかない。

17日の特別講座では、能満寺の「聖観世音菩薩立像」が、神奈川県で最古級の箱根神社・万巻上人坐像(平安初期)、大磯町の王福寺・薬師如来坐像10世紀初頭)に次ぐ古い作例であるとの解説を、この耳で確かに聞くことができた。「聖観世音菩薩立像」への興味が高まった。
特別講座の前、そして終了後に「聖観世音菩薩立像」(像高101.3㎝ カヤ材 一木造)を間近に拝観した。
講座の前に拝観した際は、腰のわずかなひねり具合や、腹部の張りのある肉づきなど、下半身のボリューム感が印象に残った。さらに、頭部から胸・腹部にかけての肌の艶やかな黒さと、それを取り囲む衣の沈んだ赤さ、といった色調・質感の落差に、何か違和感のようなものを感じた。
講座終了後に改めて拝観した際には、講座で聞きかじったばかりの衣文表現(翻波から漣波へと移行する段階)とはどのようなものだろうかと、注視してみた。
(といっても、翻波・漣波の彫法そのものを知らないので、その過渡期的な表現なのかどうか、確かめようがなかったのだけれど…)。
また、大きく後補の手が入ったと知った頭部(顔)を改めて見直すと、下半身の豊かな量感に比べ、俄かに小さすぎるように思えてきた。さらに衣についても、全体に重々しい印象をもった。講座を聞いたあとでは、もう初めての時と同じような眼で見ることはできなくなっていた。
結局、能満寺の「聖観世音菩薩立像」の10世紀前半の制作当時の像容、ことにお顔の表情をイメージすることは、素人の私には難しい…そんな残念な思いが残った。その一方で、「聖観世音菩薩立像」の背景について、もう少し知りたいとも思った。

18日、能満寺の客仏である「聖観世音菩薩立像」と、この像を本尊としていた「橘樹郡岩川村長命寺観音堂」についての資料を図書館で探してみた。『新編武蔵風土記稿』(雄山閣1996年)、『三浦古文化』第2号(三浦古文化研究会、1967年)があった。これらから新たに得た情報・視点は次の通りだ。
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①『新編武蔵風土記稿』巻之六十三 橘樹郡之六:
*「〇清沢村 (中略)
   能満寺 村の西にあり、字花井坂と云所なり、星王山宝蔵院と号す、天台宗多磨郡深大寺深大寺の末山なり、(中略)本尊は虚空蔵 木の立像にて長三尺 慈覚大師の作なりと、昔の本尊は聖徳太子の作り給ふ所なりしと云、これはいかゞして失たりや今はなし、(後略)」
*「〇岩川村 (中略)
   長命寺 村の南 中原道につきてあり、天台宗にて清沢村能満寺の末寺、青林山聖観院と号す、正観音にて立像長三尺五寸、裏書ありて聖徳太子の作なりと云、此像は昔 鈴木某の持伝へたりしを此地の地頭鈴木氏へゆづり、夫より此寺に納めたりしなり、(後略)」
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 ②『三浦古文化』第2号:渋江二郎「川崎市能満寺の仏像について」
*「(前略)木造聖観音像立像 一体 像高一〇一・二センチ 台座高二五・〇センチ 
厨子内安置で開帳仏。一木造で肥満体。表面の彩色はすべて後補。肉身部は漆箔。(中略)漆箔彩色共に江戸時代に行なわれたものである。彩色漆箔のほかにも後補の部分は多い。ことに顔の前面が全部後補の矧ぎつけ、玉眼、白毫をつけてある。(中略)手先・足元は左右共に後補。持物の蓮花は後補。以上のようにかなりの後補改作はみとめられるが、その基幹に於いて一本(マヽ)造の堂々たる体躯がのこされており、着衣部の衣文線は地方仏としては比類なき みごとな翻波式彫法で平安時代初期の製作であることはあきらかである。
 背部の肉身部漆箔の上に朱書きの再興銘がある。「岩川村長命寺観音堂之本尊聖徳太子真作也、正観音一体再興并厨子共令修福奉寄進之者也、江戸願行寺广旭汁誉□□、于時延宝弐年五月十八日」(中略)仏像としては重要な部分である顔が江戸時代であることは残念であるが、全体の体躯は当初のものであり着衣部の彫法がみごとで、稀に見る名作である。(後略)」
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 『三浦古文化』第2号(1967年)において渋江二郎氏は、「衣文線は地方仏としては比類なき みごとな翻波式彫法で平安時代初期の製作」とされていて、像の制作年代などが17日の特別講座での評価(10世紀前半)と食い違っていた。
 ただ、素人の私が「聖観世音菩薩立像」の本来のあり方をイメージしようとする時、渋江氏の過去の評価も重要な視点であるように思えた。つまり、古代の伊勢山台に展開した寺院や橘樹郡衙の消長の流れに、天台宗の流れが重なり、それらの歴史風土・歴史景観のなかから「聖観世音菩薩立像」が誕生したようにイメージできたからだ。
 また、『新編武蔵風土記稿』に記された〝清沢村能満寺の旧本尊は聖徳太子であったが、どうしてか失われてしまって今は無い"という経過と、〝(清沢村東隣の)岩川村長命寺が能満寺末寺であり、その本尊…延宝2(1674)年の再興銘に「岩川村長命寺観音堂之本尊聖徳太子真作也、正観音一体」とある…が、鈴木某から地頭鈴木氏に譲られて長命寺に納められた"という経過とが、お互いに符合しているように感じられた(〝鈴木某″は岩川村出身ではない人、と読み取った場合)。
つまり、能満寺の客仏とされる「聖観世音菩薩立像」は、そもそもが清沢村能満寺の旧本尊であり、いずれかの時点で末寺の岩川村長命寺に移され、長命寺が廃寺となった際に再び能満寺に返され、現在に至ったのではないか、とのイメージが浮かんだのだ。
【廃寺となった岩川村長命寺の位置は『新編武蔵風土記稿』で「村の南 中原道につきてあり」とされている。その正確な位置は不明だが、岩川村の鎮守であったとされる現在の千年神社とそう遠くはない地点…伊勢山台東麓(現在の千年交差点近く)…に位置していたのでは、と妄想している。】
 
 いつものごとく、妄想に始まり妄想に終わってしまったが、今回の公開を機会に、橘樹郡が以前より少し身近に感じられるようになったのが嬉しい。

能満寺
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