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私の第三十四夜をつづります。

小筥根の郷、桑原(3)

 二十四体の仏様が並び立つ人工的な展示室。閉じられた空間には自然の光も、川の音も、風のそよぎも届かない。信仰の心を持たずに仏像を拝する一方で、仏様たちにとって、ガラスケースの空間は息苦しくはないだろうか…などと思う。
しばらくして展示室を出た。外は光にあふれていた。

 館を出て中食をとり、隣の熊野神社に立ち寄る。鳥居や向拝の虹梁に添えられた青竹と注連縄は、最近張られたばかりのようだった。
美術館で、神社近くにかつて平清寺という寺があったらしいと知った(展示パネルのなかでも「平清寺」の名がはっきり記されている)。“北条宗時の墳墓堂”、“実慶作の阿弥陀三尊像”、“熊野神社”、“平清寺”…これらのキーワードは、一つの線上に連なっているように感じた。

 続いて白山神社へと向かう。山際から南東面に乾いた田地が広がっている。山際をぐるりと見渡すと、ひときわ目立つ大木があった。白山神社の社叢だ。近づくと大木の肌は斑模様をしていた(カゴノキという木であるらしかった)。
巨木群に囲まれた小さな社殿は、神聖な地の結界のように見えた。
その場所で、かつて、阿弥陀三尊像を安置する阿弥陀堂が、桑原川(来光川)流域を見渡すようなこの地域にあったなら…と想像してみる。そして、目の前の田地のどこかに、阿弥陀堂の影を映す苑池があったかもしれない、などと空想が広がってゆく。
来光川や水田などを浄土式庭園の“池”と見立て、西側の彼岸(白山神社域一帯、もしくは熊野神社域一帯)に阿弥陀堂を、“池”をはさんだ東には薬師堂を配置する(明治期、偶然?にも桑原薬師堂は長源寺境内に建てられている)。
地形図のなかの“小筥根の郷”を、改めてそのような妄想の配置プランで眺めなおしたりする。
(ちなみに、美術館展示室でも阿弥陀三尊像は東向きに配されていた。出入り口が東に開いているためか、残念ながら薬師如来像は南面する形ではあったのだが。)
 
あとはこの妄想と遊びながら、来光川沿いの道を戻るだけだった。そして、“池”を東に渡り、長源寺と桑原薬師堂を訪ねた。お堂を抱くような山に入り、桑原西国三十三所観音霊場も巡った。山の斜面に西陽が差し込み、観音様たちの繊細な口もとに和らかな陰翳をつくっていた。
再び現世の函南駅に着いたのは4時に近かった。“小筥根の郷”で過ごした一日はあっという間に終わった。
 
【補記】帰宅後、館でいただいた詳細な資料を読み、さらに伊豆新聞「伊豆の仏像を巡る(49)」のなかで、田島整氏が書かれた
「…平清寺は万巻上人所縁の新光寺の子院であったが、衰退して江戸後期には阿弥陀堂になっていたらしい」、
「…この阿弥陀堂は、美術館横の熊野神社の上にあったという」、
「…一時期、実慶の阿弥陀像は桑原熊野神社本地仏(神体としての仏像)だったのかもしれない」との記述に出くわすことになった。
 そうならば、妄想プランの阿弥陀堂白山神社域ではなく、やや下流にあたる熊野神社域に限定してかまわないのかもしれないと思った。川の西岸に位置する点では変わらない…。
また、新光寺跡の位置については、館資料のなかで
「…平安時代の初め頃の弘仁八年(八一七)桑原の谷戸の奥まった所に創建されたと『筥根山縁起并序』の伝える小筥根山新光寺…」とあった。
俄か勉強の私があれこれと推定するほどのこともなく、新光寺跡は“谷戸の奥”(すなわち、白山神社以北?)だったということになる。
さらに、かつて白山神社周辺の水田から瓦片1片が採集されているということも分かった。瓦の年代は不明だが、新光寺と係るものであれば、平安時代に遡る可能性も出てくる。ぜひ、貴重な瓦の年代を知りたいと思う。
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       残る土壁と骨組み。養蚕農家のような小屋根。竹は近くの山のもの?

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白山神社の社叢。社の前には水田が広がる。
 この周辺域にあったのは、阿弥陀堂ではなく新光寺だったようだ。
 この周辺域にあった新光寺が、もし平安時代に遡る仏像群(薬師如来坐像毘沙門天立像、聖観音像立像、地蔵菩薩立像、十二神将摩虎羅大将像・波夷羅大将像・宮毘羅大将像)の七体と係るものと理解するならば、薬師堂が川の東にあったのでは?という妄想プランは成り立たなくなりそうだ。 

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長源寺・桑原阿弥陀堂の裏山で最初に出会った観音様

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桑原川(来光川)