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私の第三十四夜をつづります。

小筥根の郷、桑原(2)

 美術館は仏の里の名にふさわしく、こじんまりとしたお堂のようだった。来館したばかりの方々に混じり、丁寧な解説を聴くことができた。
 美術館の明るい大きな窓から、川向こうの長源寺の屋根、そして一段高台にある桑原薬師堂がわずかに見えることを知る。現在は美術館に展示されている仏様たちは、あの桑原薬師堂などの仏堂で連綿と守られ続けてきたのだ。(仏様と村人…琵琶湖北岸の村々で拝した十一面観音像の姿を思い出す。琵琶湖のほとりの観音様たちにも、村人によって難をまぬかれ守られてきた歴史があった。)
また、美術館が小学校の跡地に建てられたことを知る。(興味深い話。つい想像をめぐらしてしまう。小学校の下に平安時代の遺跡が眠っていたら…などと。)
この美術館の敷地が、谷あいの限られた空間のなかでも寺院の立地に適した高さにあること、隣接して熊野神社が座すこと、来光川を隔てた真向かいに、長源寺や明治期から仏像群を安置していた桑原薬師堂があること。
それらを考えると、この美術館の場所に、9世紀初頭創建と伝わる“小筥根山新光寺”が立地していたとしても不自然ではないように思えてくる。(ただ、この美術館建設に伴う工事では何も出ていない。もともと遺跡包含地ですらなかったのだ。いや、先の小学校建設時にすでに破壊されてしまったのでは?…などと未練を残す。)
では、ほかにも寺院の立地にふさわしいような場所はあるだろうか。
美術館からさらに200~300mほど歩いた先の白山神社一帯は、現在も水田域の上段に人家が連なっている。仏様たちが当初に坐していた場所はどこなのか…拝観という本来の目的を離れ、妄想は横道に入り込む。
一同は資料展示室に進み、仏様たちについての詳しい解説に耳を傾ける。(その由来はとても興味深い。阿弥陀如来坐像については、實慶の作と判明する過程を追うだけで、1本のドキュメンタリー番組が成立しそうだ。薬師如来坐像も、像そのものの存在感を拡散し、脇侍を従える必要すらなさそうだ。)
いよいよ暗い展示室に入って拝観する。予想したとおり、素晴らしい仏様たち。薬師如来坐像の豊かな量感。大磯町王福寺の薬師如来坐像は、より高く、より引き締まったシルエットだったように思う。眼の前の薬師如来坐像は両膝の張り出し方が小さいからだろうか、その分、いっそう上半身のボリューム感が際立つように感じられた。背中の厚みも圧倒的だ。見ているだけで安らかな気持ちになった。(ただ、右の掌の表情は、上半身とのバランスからすれば、肉づきが薄く弱々しいように感じる。手相のような二本の深い陰刻もどうなのだろう…。土器を復元するように、修理の手が加えられていたりするのだろうか。)
【余談の余談】展示室では十二神将像群も拝見した。不謹慎にも、思わず同じポーズを取ってしまった神将像があった。唯一、頭上に十二支の像を載せていない神将像。その神将像の腕の交差の仕方、手が結ぶ印が妙に斬新に見えた。神将たちにはそれぞれの必殺技、決めポーズがあったのかもしれない。神将像の指先にビームを感じた人は、きっと同じポーズを取ってみたくなる…不謹慎にも。
【補記】薬師如来坐像について、田島整氏による 「伊豆の仏像を巡る(47)」(伊豆新聞)を読んだ。記事には「…本像は両脚や両腕、両手先など十数個の部材を寄せているが、両腕とも後世の拙い手に代わっているのは残念だ。…」とあった。とすれば、やはり右掌は、本来はもっとたっぷりと肉付きのよい大きな掌をしていたのだろう。良かった…と思う。
また、田島氏は「…両膝の張りが弱く、奥行きも足りず、上半身に比べて下半身が小さすぎる点には違和感を覚える。上下の釣り合いが取れていないために、重心が上に片寄って、不安定な印象を受ける。とはいえ、この点を割り引いても、本像は彫刻としての魅力に満ち、伊豆の平安仏のなかで出色の像であることは間違いない。…」と書かれていた。
仏像について素人の私の眼では、不安定な印象はまったく受けなかった。ひたすら”どっしりとした”仏様であった。素人の眼は、”割り増し”一方だ。