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私の第三十四夜をつづります。

左京(1)慶滋保胤邸跡

 歌人相模・大江公資と交友関係があり、かつ相模国を実際に通過したと思われる能因。その歌集『能因法師集』にも、また12世紀中葉の歌論書『袋草紙』にも、大江公資邸について触れた歌や記述がある。

能因法師集』(『新編国歌大観』)から
     故公資朝臣の旧宅に一宿、月夜詠之
218   ぬしなくて あれたる宿の そともには 月のひかりぞ ひとりすみける

『袋草紙』から
「能因ハ 古曽部ヨリ 毎年 花盛ニ上洛シテ  宿 大江公資ガ五条東洞院㈠  云々。」
 
 今回の京都の旅では、この「五条東洞院」の大江公資の住まいの跡を訪ねたい、という願いが最も強かった(叶うことなら、大江公資と別れた歌人相模の住まいも訪ねてみたかった。ただ、残念なことに歌人相模邸については明らかになっていない)。大江公資邸跡のほかには、慶滋保胤邸・源頼光邸・大江公仲邸の跡を訪ねることにした。

 旅の初日、石清水八幡宮、鳥羽離宮跡を廻ったあと、電車を京都駅で降り、四条の宿まで歩いて向かうことにした。疲れ果ててはいても、空はまだ十分に明るかった。
 2013年頃に調べた地図(「修徳学区の歴史的資源概略図」)を片手に、まず、歌人相模の大伯父(?)の慶滋保胤邸跡に向かう。地図では、六条坊門小路(現‣五条通)と室町小路が交叉する西南角だ。
 それらしきところは、21世紀現在の古都の大通りだった。ここに10世紀末、1100坪ほどの邸宅地があったことをイメージするのは難しい。歌人相模が、母方の大伯父(?)の念願の住まいだった地を訪れることはあったのだろうか。


イメージ 1
慶滋保胤邸(池亭)跡(訂正:池亭の位置は写真右半のビル方向です。通り2本西側の室町通が正しいのを、誤って烏丸五条の交差点で撮影してしまいました。)
この現在の五条通…車が行き交う道路部分を含めて、「池亭」が造営された場所のようだ。
発掘調査報告書によれば、
「(平安京左京六条三坊)六町の北東4分の1には慶滋保胤の「池亭」があった。慶滋保胤(?〜1002)は平安時代中期の儒学者・詩人で、土御門大路付近からここに移り住み、北東4分の1町に邸宅を構えた。邸宅は四方に垣をめぐらせ、門を開き、邸内には池と築山を造り、池の北には寝殿、西には阿弥陀堂、東には書庫を置き、菜園や芹田があった。慶滋保胤の著した『池亭記』は、天元5年(982)の成立で、六町の様子を記したこと以上に、平安京の移りゆく様を活写したことで有名である。」(『平安京左京六条三坊五町跡』(財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 2005年