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私の第三十四夜をつづります。

『相模集』の「石田」を探す

 

今回の一人旅には、長年疑問としてきた、『相模集』の「石田」の候補地を探す目的もあった。
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    軒の玉水かず知らぬまでつれづれなるに、「いみじきわざかな 石田(いした)のかたにも
    すべきわざのあるに」とおのが心々に、しづのをの言ふかひなき声にあつかふも耳とまり

78 雨により 石田のわせも 刈りほさで くたしはてつる ころの袖かな」

                    (『相模集全釈』1991年 風間書房  )
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『相模集全釈』では、この78の「石田」を、

「公資の子孫である公仲伝領の荘園の一つに石田荘山城国があって…中略…これを公資以来の伝領の土地と考えるならば「石田のかた」と符合するもので…中略…現在の京都市伏見区石田(いしだ)であろうか。」

と解釈されている。

78の歌の「石田」の場所を、私は当初、”相模国の石田”(現・伊勢原市石田)の可能性を妄想したりしていた(この場合、78の歌が詠まれた時期を相模国滞在時としなければならないが、もちろん、それを裏付けるものは何もなかった。また、相模国府国庁推定地から6~7㎞の距離で、かなり遠い)

そして、”大江公資‐大江公仲伝領の石田荘”の存在を強く意識する一方で、その推定地「京都市伏見区石田(いしだ)」は、歌人相模の時代には「いわた(いはた)」と呼ばれていたのではないか?という疑問が消えなかった。
さらには、自分なりに、古来から「いしだ」と呼ばれてきた別の地を探しあてたい…大変恐れ多いことなのだけれど…と思うようになった。

そして、「石田殿の立地について」(本中 真 『造園雑誌』1987年51巻3号)という論考に出会うこととなった。
氏は、11世紀後半に造営された「石田殿」の比定地として山城国近江国の4地点【註1】を設定され、「山城國石田」の2地点【註1】について、次のように論考されている。

「山城國に存在した石田は、この2者である。しかしながら、この2つの石田を即 藤原泰憲の石田殿と関連づけるのは問題があろう。その理由として、宇治郡小栗栖郷、久世郡那羅郷ともに、平安時代以来 石田の領有権が細分化されていたことと、集落名の石田は当時「いしだ」と呼称されるものではなかったことの2点を挙げることができる。」

平安時代、石田は宇治郡、久世郡ともに「いしだ」ではなく、「いはた」と訓読するのが習わしであった。」

「『今鏡』に記す「いしだ」殿は、呼称のされ方の点からも山城國宇治郡小栗栖郷石田でも山城國久世郡那羅郷石田でもないことが首肯できよう。」

【註1】
*「山城國石田」:宇治郡小栗栖郷石田(”大江公資‐大江公仲伝領の石田荘”推定地)と久世郡那羅郷石田

*「近江國坂田郡石田」
*「近江國園城寺 近辺」

なお、『大江仲子解文』(1095年)の「石田」(”大江公資‐大江公仲伝領の石田荘”)について、「この石田は宇治郡か久世郡かは不明であ る。」と言及されている。

 

この論考に意を強くした私は、恐れ知らずに地図や地名辞典の中で新たな「石田(いしだ)」を探し始めた。

それが今回の一人旅で訪れた「京都市南区東九条 石田町~南石田町」なのだった。

結論を言えば、この「石田(いしだ)」の地名が11世紀前半まで遡るかどうかは分かっていない。
現時点で唯一参考となるのが『日本歴史地名大系 27 京都市の地名』(1979年 平凡社)の「東九条村」の解説文で、

明治一〇年代の「京都府地誌」に…中略…この頃の小字として記されている地名のうち、石田については鎌倉期以降の田畑売券に多出し(九条家文書)

と触れられていることだけだ。

はたして、「東九条村の石田」が鎌倉期以前…11世紀前半の「石田」にまで遡るだろうか? この問いかけの答えは、どこを探せば見つかるのだろうか?

 

なお、今回、「京都市南区東九条 石田町~南石田町」について、雑駁ながら考えたこと・知り得たことをまとめると、以下のようになる。

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①「京都市南区東九条 石田町~南石田町」は、大江公資邸推定地(「五条東洞院」:東西を高倉通東洞院通、南北を万寿寺通松原通に囲まれた「左京区六条四坊一町」の南西角)から東洞院通を南に一直線に下って約3㎞、という比較的近距離に位置している(仮に、大江公資邸で働く人々が、この東九条の「石田(いしだ)」に通う場合、かなり便利な位置関係にあると言えると思う)。

②しかし、78の歌が歌人相模の屋敷で詠まれたとすれば歌人相模の屋敷の位置は不明)、①のような東九条の「石田(いしだ)」との距離感はつかめない。
そして、歌人相模の屋敷の中で、大江公資のもとで働く「しずのを」たちが、長雨で大江公資の所領の収穫作業ができないことを心配しているのであれば、78の歌は、大江公資と歌人相模が日々の生活を共にしていた時代に詠まれたもの、と考えるのが自然かもしれない。
(『相模集全釈』においても、「公資との結婚生活も平穏であったはずのこの時期に」とされ、78の歌の時期を、「(1) 宮仕えから、結婚、相模国滞在頃まで 43-82」に含めて分類されている。もし、78の歌が詠まれた時期が、相模国下向以降であれば、すでにで夫・大江公資の心は離れ、歌人相模の屋敷を訪れることも途絶えがちだったはずだ。その場合、主人の大江公資が常住していない歌人相模の屋敷で、「しずのを」たちが日常的な会話を交わしていることは不自然に思われる。)

一方で、もし、78の歌が歌人相模の屋敷で詠まれ、「しずのを」たちの主人が歌人相模であったとすれば、「石田」は、歌人相模の私有地である可能性も考えられるのだろうか?(この場合、78の歌の「石田」は、”大江公資‐大江公仲伝領の石田荘”とはまったく別個の土地ということになる。【追記:しかし、別の可能性もあり得るかもしれない。「石田」が”大江公資‐大江公仲伝領の石田荘”であり、しかも、歌人相模を主人とする「しずのを」たちが「石田」の仕事を担っている・手伝っている可能性だ。当時の結婚形態においてはあり得ることなのかもしれない。】

なお、歌人相模の結婚形態については、『相模集全釈』の「解説」のなかで、「生まれ育った母の家で公資を迎えるという結婚生活」で、「相模は従妹の為政の娘と同じ邸内に住み」といった想定がなされている【註2】
【註2】歌人相模の「母」は慶滋保章の娘で「母」の兄弟に慶滋為政がいる。「従妹」は慶滋為政の娘。 

歌人相模が「美豆の御牧」や「淀」の詞を織り込んで詠んだ歌には、経験知や臨場感が感じられる。そこには、それらの土地を度々訪れていた彼女の実体験が作用しているように想像する。

④素人の妄想として、78の歌の「石田」は、貴族・貴人が京外に所有する小規模な土地の部類だったのでは?と思い描いている。
歌人相模が、身近な「しずのを」たちの会話をもとに歌を詠んだ「石田」とは、当時の土地制度のなかで、どのような位置づけのものだったのか? また、78の歌の「石田」とは離れて、”大江公資‐大江公仲伝領の“石田荘”とは、どのような経営形態のものだったのか? 私には分からないことばかりだ。)

⑤『史料 京都の歴史 13』(1992年 京都市)の「南区概説」の中で、南に鴨川、東に桂川が流れる低湿地の南区について、

「古来京都南郊の豊かな農業地帯」で、歴史的にも「長岡・平安両京の「はざま」に位置し、紀伊郡乙訓郡の条里が施行され」と解説している。

 

《余禄》
京都市南区石田町~南石田町」から十条通を東に一直線で約800mのところに、農業的的色彩の強い社名とされる「田中神社」伏見稲荷大社の”境外摂社田中神社”)が位置している。歌人相模の初瀬参詣ルート上で詠まれた最初の歌(104)の詞書に「神な月 初瀬に詣づるに、稲荷のしものみやしろにてみてぐら奉る」とある。
『古今著聞集』(巻第5-和歌6-201「和泉式部 田刈る童に襖を借る事 幷びに 同童 式部に歌を贈る事」)に”田中明神”の名が見えるようなので、歌人相模も初瀬参詣に際し、この”田中明神”~”稲荷のしものみやしろ”を参詣したことになるのだろう。また、この説話の「田刈る童」も、この地域が農業地域であることを示唆しているようだ。いつか、”田中明神”も訪ねてみたい。

【追記】
伏見稲荷大社のHPに次のような記述があった。

「…久安6年(1150)下社奉幣に併せ田中社幣が、中社奉幣に併せ四大神幣が初めて加えられ(本朝世紀)、降って文永3年(1266)の稲荷祭には、田中・四之大神両社とも初めて祭に加えられた(神号伝並後付十五箇条口授伝之和解)…」
            (伏見稲荷大社HP:「沿革 いつつのやしろ」から引用)

『古今著聞集』の成立も13世紀半ばであり、和泉式部歌人相模の時代(10~11世紀)に、稲荷社の上・中・下社に加えて「田中明神」・「田中社」といった形が存在したことを確実視するわけにはいかないようだ。

 

 

地名としての「石田町」の表示(京都市南区東九条で):
「いわた」ではない「石田(いしだ)」が目の前に存在している。狭い路地に分け入り、このような表示を探し回って写真を撮るのは、かなり不審な姿だと思う。地元の方々に怪しまれないかと心配になった。

 

「南石田町」の表示(左)と「石田湯」の看板(右)京都市南区東九条で):
ここにも! またここにも!…あって当たり前だ。石田町・南石田町という場所を訪ねているのだから…。はるばる出かけてきて見つけた「石田」の文字がどうにも嬉しい。根拠のない喜び。妄想が行き着く愉悦。

 

石田町のすぐ南を流れる鴨川:この流れの先に昨日訪れた「淀津」があるのか…。

 

石田町の南西にある「苗代児童公園」(南区上鳥羽苗代町):
この公園の名前の「苗代」の文字が目に飛び込んできたのは、歩きながら地図を眺めていた時だった。歌人相模の「石田のわせ」の土地と、「石田町」・「南石田町」の土地とを結びつける地名のような気がした。妄想過剰の私が実際に歩いて出逢った現実の「地名」…もちろん、この地名もどの時代まで遡るのか、分かっていないのだけれど。

 

鎌倉時代の井戸から出土した平安後期の瓦(「淀津」推定地:長岡京跡・淀水垂大下津〔よどみずたれおおしもづ〕町遺跡):
一人旅の最後の日、京都市考古資料館を訪ね、速報展(「発見!淀津!?-「淀津」解明の始まり-」)を見学した。
展示資料の巴文瓦などについては、「…遺構から見つかった平安時代の瓦は、鳥羽離宮から出土した瓦と同じものだと考えられ、この場所に平安時代に役所か寺院が置かれていた可能性が高い…」(京都 NEWS WEB「伏見区 水運の拠点「淀津」跡  2000年にわたる遺構確認」2022年9月06日)といった記事を読んだ。
歌人相模の11世紀から少し下る時代と思われるが、彼女が淀津を訪れた当時、瓦葺の官衙的な建物があったのかどうかは分からない。