enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣:淀川②「美豆の御牧」と「淀津」の推定地を訪ねる

 

一人旅の二日目、重いリュックから解放され、元気よく「淀駅」に向かった。

「美豆の御牧(みづのみまき)」推定地に近い「淀駅」前には、偶然なのだろうか、京都競馬場が立地していた。
歌人相模がこの21世紀の「淀駅」に降り立ったなら、周辺の風景から不自然に突出した巨大な建物に言葉を失うだろう。)

まずは淀大橋を渡り、久御山(くみやま)町の西一口(にしいもあらい)方面に向かった。

巨椋池を中心に、鴨川・桂川・淀川、宇治川・木津川が自然に出会っていた頃の広大な水辺の景観が失われたことを、”21世紀のよそ者の私”はただ惜しむことしかできない。
宇治川の整った流れに沿って、眺めの良い土手道を歩きながら、『蓮の咲く巨椋池の水面というものを見てみたかったなぁ…』と残念に思ったりしてしまうのだ。)

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   三十講の歌合に、五月雨を

594 五月雨は 美豆の御牧の まこも草 かりほすひまも あらじとぞ 思ふ

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この歌について、私は『enonaiehon』の中で、繰り返し、素人なりに考えてきた。歌人相模という人に近づくなかで、この歌は、彼女にとって特別な位置づけをもつように感じたからだ。

その妄想の雑文で触れてきたように、40代半ばの歌人相模が描き出した「美豆の御牧」の歌には、受領の妻として東国に下った経験に裏打ちされた視線、叙景歌の枠を超えた”歌人相模の達観”のようなもの…どのように表現すればよいのか、言葉が見つからない…を感じないではいられない(大江公資は国司としての任地先で、”牧”を経営していた。歌人相模は走湯権現参詣の折に、”早川牧”なども訪れていたのかもしれない。)

そして、降り込める”五月雨”を歌いながら、そこには、都城の都市空間を離れた郊外の広い空、広い水辺があらわれ出て、濡れそぼつ”まこも草”の上には、光と風が踊っているようにさえ見える。

往古、木津川の水辺に広がっていた御牧には、五月雨の季節ともなれば若菰が大きく育ち、晴れた日には輝く毛並みの馬が草を食み、のびやかに駆けまわる姿が見られたのだろう(マコモはその草を筵〔むしろ〕に編むほか、馬の飼料にもなったようだ)。594の歌は、そうした野飼いの牧の日常的な情景も透けるように描き込まれて成立しているのだと思う。

こうした「美豆の御牧」の世界から一千年が経った。
21世紀の現実の「美豆の御牧」推定地には、集落と収穫前の稲田が広がるばかりだった。
西一口から玉田神社に向かう道路と水田の間では、用水路にたまった泥やはびこった大きな草をかきだし、ザァーザァーと水を滴らせながら作業車へと積み込む人々の姿があった。
また、玉田神社から北川瀬・藤和田へ向かう道路脇の水田では、歩くそばから、サギやシギが慌てて飛び立ってゆくのだった。
「美豆の御牧」はすっかり農業地域に生まれ変わっている。そして、「御牧」を連想させるものは京都競馬場伏見区だけであったことが少し残念でもあったマコモを知らない私には、水辺のアシと見えるものがマコモであるかどうか判別できず、マコモの存在も確かめることができなかった)

 

久御山町から再び淀大橋で宇治川を渡る。
(『地図でみる西日本の古代 律令制下の陸海交通・条里・史跡』(2009年 平凡社)のコラム「地図に残るもの残らないもの 地形図名・淀(二万分の一)明治四十一年六月二十九日発行」を見ると、この淀大橋は旧木津川右岸線と重なる位置に架かっている。意外なほど、交通量が多い。北から・東から・南からと、大きな川が一堂に出合うこの地域は、現代も名神高速道路、京都縦貫自動車道東海道線及び新幹線、京阪本線阪急京都線などが交錯し、交通の要衝としての位置づけは不変のようだ。)

 

新しい宇治川桂川の間に閉じ込められたような淀美豆町に入った。

奈良時代の官道〔古山陰道は、平城京から旧木津川左岸を走ってこの地に至り、そこで初めて”澱む水辺”に出て対岸へと渡っていたのだ。
そして、この官道が廃れたあと、都の人々の多くは奈良坂越えルートで大和国をめざしたはずだ。一方、歌人相模が初瀬参詣路で「あとむら」や「すがたの池」を詠んでいることは、彼女が当時の一般的な奈良坂越えルートとは別の独自ルートをたどったことを示唆している。)

 

宇治川と木津川の流路改変によって分断され孤立した淀美豆町の町並みは、その分、久御山町より古色が残っているように感じられた。その古色に引き寄せられるように涼森(すずもり)神社・美豆城跡にたどりついた。

こうして今回は、久御山町で旧木津川右岸の「美豆の御牧」、淀美豆町で旧木津川左岸の「美豆の御牧」を訪ねたことになった(久御山町の玉田神社には、疲れた旅人を励ますような風渡るさわやかさ、淀美豆町の涼森神社には、時間の堆積を感じさせる聖性のようなものが漂っていた)。

 

次いで宮前橋に向かい桂川を渡る。

21世紀の現在、もはや11世紀の面影など求めるべくもない…そう思いつつも、やはり、橋の周辺の水辺に「淀津」の姿を探してしまう。
夕暮れの桂川は夕焼雲を映して穏やかに流れている。その情緒的な照り映えは、おそらく11世紀とそうは変わらないのだろう。しかし、歌人相模や都の人々が見た「淀」、歌に詠まれた「淀」の景観は、もはや喚び起こすことはできないのだった。

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   わりなかりし所に、菰といふものを、あたり近うひきたりしも、忘れがたきふしにや
120 あやめにも あらぬ真菰を ひきかけし かりのよどのも 忘られぬかな

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歌人相模は、594の「美豆の御牧」の歌で、広く開かれた湿地帯の風景を新しく切り取り、当時の人々が共有する新しい景観の記憶をつくりあげた。その一方で、120の歌では、秘匿すべき一夜の生々しい思い出に一人浸っている。「真菰」や「よどの」の歌詞も、個人的な忘れ得ぬ記憶をとどめるキーワード以上の普遍性はないようだ。

 

 

南牧村役場」跡の碑(久御山町西一口〔ニシイモアライ〕):碑の近くには久御山排水機場が建つ。この碑の対岸(左手は新しい宇治川の土手道)には京都競馬場があるはずだ。まさに、かつての”澱む水辺”は、跡かたなく制御され管理されている。

 

「平安朝御牧場寮故址」の碑(久御山町 御牧小学校前):すぐ隣で建設工事が始まっていた。平安時代の低地の遺跡が眠っているのではないか?と気になった。

 

「平安朝御牧場寮故址」の解説板:この解説板のように、「美豆の御牧」の推定地については、旧木津川右岸域(久御山町の北川顔~藤和田など)、そして旧木津川左岸域(おそらく伏見区淀美豆町~淀際目町~淀生津町、八幡市飛び地など)が想定されている。そして、その旧木津川の河道ラインは、地図上の曲線的な市町村界として残っている。
(解説文中の「旧木津川の西」とあるのは、現時点の私の理解では、”旧木津川の東”(つまり、旧木津川右岸)となるように思うのだけれど…。なお、”藤和田”には、「藤和田封戸殿」・「藤和田御所ノ内」といった地名も残っている。地名がどこまで遡るのか…いつも難題だ。)

 

収穫を待つ稲田(久御山町相島付近から)

 

「かりてほす 美豆の御牧の 夏草は しげりにけりな 駒もすさめず 内裏名所百首」(玉田神社の歌碑):残念ながら歌人相模の歌ではなかった。

 


五色幕がはためく玉田神社境内:田を渡ってくる風が高く吹き抜けてゆく。
明日香風ではなく、御牧風? それとも淀風だろうか? 
とにかく、あまりに気持ち良くてウットリした。

 

旧美豆村の水田と、涼森神社・美豆城跡の森を望む(伏見区淀美豆町):
涼森神社は昼なお暗く、沖縄の御嶽(うたき)にも似た踏み入りがたさがあった。

 

宮前橋から「淀津」推定地(長岡京跡・淀水垂大下津町遺跡 調査2区方面)を望む:左手の緑を失った部分が、平安時代後期の瓦などが出土したとされる調査2区だろうか。ここで桂川が蛇行するあたりは、推定・長岡京の南東端にあたっている。条坊の中をこのように大きな川が流れていたのか…。

 


夕焼け雲を映す桂川(宮前橋から):一日の終わりの夕焼け…
ただただ美しくて、心が空に吸い込まれてゆく。

最後に、『内裏名所百首』の歌をもう一首。
(これはまた斬新な「美豆野」、優雅な「淀の渡り」だ…印象派の絵画にも似て、明るく美しい。)

1229 渡(わたり)する をちかた人の そでかとや みづのにしろき ゆふがほの花