三十講の歌合せに五月雨を
594 五月雨は 美豆の御牧の まこも草 かりほすひまも あらじとぞ思ふ
(『相模集全釈』から引用)
_______________________________________
これまで、歌人相模の初瀬参詣推定ルートについて、およそ次のような疑問・想定をもとに模索してきた。
*「賀陽院水閣歌合」(1035年5月)出詠歌は、歌人相模の実体験のなかから生まれたのではないか。
*淀での実体験の一つが、初瀬参詣の旅(1027年?冬)での淀川渡河ではなかったか。
*では、歌人相模は初瀬参詣に際し、淀川を渡河した可能性はあるのか。
*まず、当時の一般的な初瀬参詣の道筋として、次のような直線的ルートが想定できた。
〔しかし、この路程は『相模集』初瀬参詣7首(104~110)のうち、105~107の配列とは整合しないように思われた。〕
*次に、初瀬参詣7首の配列は路程順であろうとの前提で、105~107の配列から、次の迂回的ルートを推定してみた。
【淀川渡河ルート】
・京~稲荷大社(104)~(久我畷)~(大山崎地点で淀川渡河)~(生駒山地西麓沿いを南下)~(津積駅家付近)~(龍田越)~安堵村(105)~菅田池(106)~良因寺(107)~楢神社(108)~鍋倉山(109)/初瀬~竹淵(110)
〔この路程では、107と108の位置関係の逆転や、帰洛途上の歌と思われる「竹淵」(110)の場所はどこか、といった問題はまだ解決できていない。〕
*次に110の歌に詠まれた「竹淵」について次の2郷3地点を想定し、三通りの復路案を考えてみた。
(1)山城国久世郡竹淵郷とする場合
→往路と同じ【淀川渡河ルート】を戻る路程
〔(2)の 【淀川経由案】の場合、「竹淵」が“男山西麓”…(1)の①地点…である可能性も加わる。すなわち、110の歌は復路の到着地点である“山崎津”…往路での淀川渡河地点…から、“男山西麓”付近の「竹淵」を詠んだとも考えられそうだ。〕
*復路案(2)の【淀川経由案】については、「賀陽院水閣歌合」(1035年)の漢文日記をもとに、左方人一行の“八幡・住吉参詣ルート”を推定し、その路程を参考にすることにした。日記によれば、およそ次のような路程を辿るように思われる。
_______________________________________
【5月21日】
* 左方人会合(未時=13~15時、藤原経輔宅)
* 各騎馬出洛
① 至淀津乗舟
② 山前着岸(戌刻=19~21時)
③ 先参石清水 ≪奉幣・泊≫
【5月22日】
④ 山崎橋下乗舟
⑤ 過江口(遊女舟数隻)
⑥ 着熊河岸(酉刻=17~19時)
⑦ 駕馬向住吉 ≪奉幣・泊≫
【5月23日】
⑧ 於大渡乗舟(辰刻=7時~9時)
⑨ 過鳥飼牧之間(大江御厨司等五六艘)
【5月24日】
⑩ 着鴨川尻(戌時=19~21時)
_______________________________________
この左方人一行の路程(⑧~⑩)を、そのまま歌人相模の復路(【淀川経由案】の淀川遡行ルート)と想定すると、往路と同じ陸路を戻るより、迂回的ではあっても楽であること、また帰路の途中で住吉大社や四天王寺参詣も可能であることなど、多くの利点があるように思われる。
ちなみに、『相模集全釈』では、歌人相模が寛弘年間(1004~1011年)に詠んだ天王寺の歌の連作(1~9)について、「実際に参詣した時の歌ではない」と分析されている。もし、歌人相模がその後も天王寺参詣を果たせなかったのであれば、約20年後の初瀬参詣の復路で、天王寺に立ち寄った可能性もあるように妄想するのだが、果たしてどうだろう。