歌人相模の歌(「賀陽院水閣歌合」の五月雨の歌)の先例をもう少し探しておかなくてはと、再び私家集も眺めてみた。①178、②61・470の例はともに、実景を詠んだ歌ではないことに意味があるように思えた。『新編国歌大観』より引用させていただく。
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①『藤原元真歌集』から(10世紀後半を中心に活躍か)
三宮に こちまき たてまつるとて
178 五月待つ ほどにさはみづ まさりつつ よどのまこもも おひにけるかな
②永延2(988)年に催された藤原兼家六十賀の屏風歌として詠まれたと思われる歌群。
『平兼盛歌集』から
大入道殿御賀の御屏風の歌
みづのみまき
61 まこもかる みづのみまきの 駒の足の はやくたのしき 世をもみるかな
『大中臣能宣歌集』から
みつのみまきに駒ともはなれちり、またたうゑたるところ
470 なつきなば みまきのまこも さみだれの なをもともに ひかむとぞおもふ
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~『能宣集』462~484の歌 及び 『兼盛集』56~67の歌から~
:463 かすがの(春日野)
紀伊国:464 しららのはま(白良の浜) /57 しららのはま
摂津国:465 なにはがた(難波潟) /58 難波江
:466 すまのうら〔たき〕(須磨の浦) /59 すまのうら
:467・468 ながらのはし(長柄の橋) /60 ながらの橋
河内国か?:469 なぎさのをか
山城国:470・471 みつのみまき(美豆の御牧) /61 みづのみまき
:472 おほゐがは(大井河)
近江国:473 うちでのはま(打出の浜)
:474 かがみやま(鏡山)
参河国:475・476 しかすがのわたり(然菅の渡り)/62 しかすがのわたり
相模国:477 こゆるぎのいそ(小余綾の磯)
武蔵国:478・479 むさしの(武蔵野) /63 むさし野
陸奥国:481 まがきのしま(籬の島) /65 籬の島
:482 あさかのぬま〔ぬまみづ〕(安積の沼)/66 あさかのぬま〔ぬま水〕
【註:482と66は同じ内容】
:483・484 すゑのまつ山(末の松山) /67 すゑの松山 【註:483と67は同じ内容】 _______________________________________
『元真集』178の歌は、五月の節句の習わしなのだろうか、“ちまき”に添えた歌のように思われる。もし、ちまきを贈る相手が男女を問わないのであれば、歌人相模なども、“ちまき”を贈られたり贈った経験があったかもしれないと想像した(なお、五月の節句に、もし“真菰”の葉で“ちまき”を包んだのであれば、“五月”と“真菰”とがつながる背景が分かるように思った)。
また、“藤原兼家六十賀屏風歌”を詠んだ二人の歌人の歌群から、歌人相模が誕生した10世紀末頃、屏風絵に「美豆の御牧」を画題とした絵が描かれていたこと、その絵には真菰が生い茂った牧の空間のそこかしこに、放牧馬が自由に駆けまわる姿、あるいは五月雨で青味を増した水田などが描かれていたことを、思い描くことができた。
こうした“屏風歌”の実例は、今回初めて知った。11世紀前半の歌人相模の時代にも、屏風絵に「美豆の御牧」が描かれていたのかどうか、分からない。ただ、歌人相模が誕生した頃、「美豆の御牧」が“屏風歌”として歌われていたことは見逃せないことのように感じた。「美豆の御牧」は決して特殊な場面ではないこと、名所絵のように当時の人々に共有された景観であったのだろうと理解した。
さらに、“屏風歌”と同じように、“歌合”の歌も与えられた歌題をもとしている点で、自発的な感動から生まれた歌(私的な物思いを重ねた歌や、旅の歌など)とは別の次元の作品世界なのかもしれない、ということも感じた。
一方で、私にとって、歌人相模が「賀陽院水閣歌合」で詠んだ歌は、歌人が実際に見た実景から生まれた歌、歌人の個人的な経験と記憶から生まれた歌であった、ということが前提になっている。実景と歌人の心象の裏付けがあるからこそ、人々のどよめきが生まれたと想像した。ただ、その前提は確かなものではないことを、今回、“屏風歌”という形を知って改めて確認することになった。とりあえずは、私の前提はそのままに、私なりの勉強を続けようと思う。