三十講の歌合せに五月雨を
594 五月雨は 美豆の御牧の まこも草 かりほすひまも あらじとぞ思ふ
歌人相模は、1035年の「賀陽院水閣歌合」出詠以前に、美豆の御牧の実景を目にした経験があったのではないか、と想像している。もし歌人相模が、淀川流域(桂川・宇治川・木津川の合流地点)に立ったことがあるとすれば、それはいつ、どのような機会だったろう。その想像を確かめる手がかりを、『相模集』のなかで探してみた。
結果、『相模集』のなかに、歌人相模が淀川流域の牧の景観を見た可能性を推定できそうな歌群…(言い換えても曖昧なままだけれど)…歌人相模が淀川合流地点を渡河した可能性をうかがわせる旅の歌があった。それは初瀬参詣の旅で生まれた連作7首だった(『相模集』104~110)。
そこで、この連作7首をもとに、歌人相模が淀川の合流地点を渡河し、長谷寺へと向かったとする推定ルートを考えてみることにした。結論として、河内国を経て大和国に向かうという、かなり迂回的な道筋となった。しかも龍田山を越えなくてはならないルートとなる。
なお、初瀬参詣の時期については、『相模集全釈』の詳細な解説や年表をもとに類推し、万寿4(1027)年の“神な月(10月)”ではなかったか、と想定した。
〇1025年秋 藤原定頼への思いが強まる(83~90の贈答歌)
〇1026年冬 大江公資が離れ去る(100~101の贈答歌、97~99の贈答歌もこの頃か)
〇1027年冬 この頃、初瀬参詣か(104~110の物詣歌)
〇1030年頃 「異本相模集」成立か
〇1035年夏 「賀陽院水閣歌合」出詠(594の“五月雨”の歌)
初瀬参詣の時期は『相模集』の配列(83~110)からの類推だ。また、当時の初瀬参詣ルートとして、京から河内国経由の迂回路を採ることがあったのかどうか分からない。あくまでも“美豆の御牧”にこだわった仮想ルートであり、また、連作7首(104~110)の流れと整合させた結果のルートでもある。歌人相模の走湯参詣ルートと同じように、自分の足で実際に歩いてみるまでの覚書としておきたい。
まずは、現時点での推定ルートを一般的ルートと比較すると、次のようになる。
【一般的ルート例として】
【淀川渡河ルート】