つまり、歌人相模の初瀬参詣の場合、その時期での大江公資との関係性次第では、大江公資が何かしらの形で係わっていた可能性があるのかもしれない…と思った。
意外な疑問だった。歌人相模の初瀬参詣に大江公資のサポート(?)があったのだろうか、という疑問が思い浮かんだことはなかったから。
(歌人相模が初瀬参詣の旅を思い立ったのは、旅の中で大江公資との関係性を自らに問い直してみたい、それを旅先の神仏に問いかけてもみたい…という気持からだったのでは、と感じていた。また、初瀬参詣によって大江公資と自分との関係の何かが変わること…を覚悟しての旅でもあったのだろうと想像していた。)
これまで、歌人相模の走湯参詣の背景には、大江公資の所領である早川牧の存在が見え隠れするように感じてきた。そして、歌人相模の初瀬参詣の背景にも、大江公資の経済活動が係わっているのでは…と仮定してみた。そこで初めて知ったのが、「山口御庄 在大和国」(『続群書類従』 巻第978 「嘉保二年大江仲子解文」)だった。
『続群書類従』などから理解したことは次のようなことだ。
*大和国内に大江公資の所領「山口庄」があったこと
*その「山口庄」が所在したのは現・天理市杣之内町あたりと比定されていること
*その「山口庄」は藤原長家(1005~1064)に寄進されていること←長暦年間(1037~1040)か?
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早川御牧。在相模国。
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(『続群書類従』 巻第978 「嘉保二年【註:1095年】大江仲子解文」から抜粋)
また、その時期に大江公資とのつながりが細々と残っていたのであれば…近藤みゆき氏によれば「長元元年夏から秋頃に公資の夜離れが重なり、その晩秋か、あるいは長元二・三年の晩秋に決定的な別居に至った」とされる…歌人相模は、初瀬参詣の往路において、「あとむら」の次の宿泊地として、「山口庄」を選んだ可能性も考えられるだろうか。