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私の第三十四夜をつづります。

大江公資の大和国山口庄

 歌人相模の初瀬参詣に大江公資は係わっていたのだろうか…この疑問が生まれたのは、『更級日記』の作者の初瀬詣でに、作者の夫・橘俊通も同行したとうかがわせるような解釈があったからだった。
 つまり、歌人相模の初瀬参詣の場合、その時期での大江公資との関係性次第では、大江公資が何かしらの形で係わっていた可能性があるのかもしれない…と思った。
 意外な疑問だった。歌人相模の初瀬参詣に大江公資のサポート(?)があったのだろうか、という疑問が思い浮かんだことはなかったから。
(歌人相模が初瀬参詣の旅を思い立ったのは、旅の中で大江公資との関係性を自らに問い直してみたい、それを旅先の神仏に問いかけてもみたい…という気持からだったのでは、と感じていた。また、初瀬参詣によって大江公資と自分との関係の何かが変わること…を覚悟しての旅でもあったのだろうと想像していた。)

 歌人相模はなぜ初瀬参詣を思い立ったのか。そこに大江公資はどう係わっているのか、いないのか。こうしたモヤモヤの手がかり(苦し紛れ)の一つとして、大江公資の大和国山口庄が浮かび上がった。
 これまで、歌人相模の走湯参詣の背景には、大江公資の所領である早川牧の存在が見え隠れするように感じてきた。そして、歌人相模の初瀬参詣の背景にも、大江公資の経済活動が係わっているのでは…と仮定してみた。そこで初めて知ったのが、「山口御庄 在大和国」(『続群書類従』 巻第978 「嘉保二年大江仲子解文」)だった。

 『続群書類従』などから理解したことは次のようなことだ。
大和国内に大江公資の所領「山口庄」があったこと
*その「山口庄」が所在したのは現・天理市杣之内町あたりと比定されていること
*その「山口庄」は藤原長家(1005~1064)に寄進されていること←長暦年間(1037~1040)か?
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一 山口御庄大和国
   早川御牧。相模国
件弍箇所各相伝所領也。而祖父故遠州【註:大江公資】為募御勢。所被寄可進故民部卿殿【註:藤原長家藤原道長6男。】也。随則故九条前太政大臣殿【註:藤原信長。妻は長家女。】相伝知食之間。(後略)
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                  (続群書類従』 巻第978 「嘉保二年【註:1095年】大江仲子解文」から抜粋)

 これらと歌人相模の初瀬参詣(万寿年間の末頃?と想定)とを重ねると、歌人相模の初瀬参詣ルート上に、大江公資の「山口庄」が存在していたことになるだろうか。
 また、その時期に大江公資とのつながりが細々と残っていたのであれば近藤みゆき氏によれば「長元元年夏から秋頃に公資の夜離れが重なり、その晩秋か、あるいは長元二・三年の晩秋に決定的な別居に至った」とされる人相模は、初瀬参詣の往路において、「あとむら」の次の宿泊地として、「山口庄」を選んだ可能性も考えられるだろうか。
 
 2016年9月に奈良を訪ねた旅では、「山口庄」の存在を知らなかった。いったい、大江公資はなぜ石上神宮近くに所領を持っていたのだろうか。歌人相模は、大江公資の所領をよすがとして、「山口庄」で一夜の宿をとったのだろうか。初瀬参詣7首には、なぜ大江公資の影が強く感じられないのだろうか。まだまだ、モヤモヤは続いている。