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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪②:「あとむら」

 9月16日、「なら仏像館」を見学したのち、近鉄「平端駅」に向かった。
 電車の中で地図を取り出して眺める。歌人相模の初瀬参詣ルートについて、いよいよ机上の探訪から地上の探訪に移るのだ。じわじわと気持ちが浮き立ってくる。
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 万寿年間(1024~1027年)、歌人相模と大江公資は相模国から戻り、再び京での生活を始める。
 この時期、大江公資が近江国の「堅田」に新たな”妻(め)”をもったこと、歌人相模が藤原定頼と短かい恋愛関係(?)にあったことが、歌集などから推測されている。そして、神無月のある日(おそらくは万寿年間の末頃?)歌人相模は初瀬参詣に旅立った。
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 その初瀬参詣想定ルートの一部を追いかけてみようと、16日は近鉄「平端駅」から西(安堵町方面)に向かって「あとむら」を訪ねた。
 平安時代にも「あとむら」の中心的な神社であったか?(遡りすぎるような…)と推定する”安堵総社”(現在の飽波神社)の地点で、再び東(大和郡山市八条町・宮堂町方面)に折り返し、さらに「すがたの池」を求めながら、近鉄二階堂駅」まで歩くことになった。 

     あとむら といふ所に宿りて、鹿鳴く
105 鹿のねに 草のいほりも 露けくて 枕ながるる あとむらの里

 105の歌からは、「あとむら」について、鹿の棲む森の近くの草深い里、というイメージが浮かぶ。
 果たして、佐保川べりの「平端駅」から飽波神社(安堵町東安堵)へ向かうために便宜的に採った道(額田部北町の推古神社・額田部寺町の額安寺へと続く坂越えの道)は、佐保川大和川右岸の集落を結ぶ古い道であるように感じた。
  ”熊凝精舎跡地”との伝承を持つ額安寺は、現時点での佐保川大和川とが合流する地点に位置する。この合流地点から岡崎川を越え、飽波神社に向かう道は、さらに富雄川を越え、斑鳩町中宮寺法隆寺に至る道へと続くように思われた。 
 歌人相模の初瀬参詣ルートが、仮に私の想定するように”龍田道”を経由するのであれば、往路は法隆寺中宮寺を経て、(”業平道”を通らずに)南東に向かい、飽波神社付近の草庵を宿としたのでは?と想像した。

 【註:以下の写真は、私が実際に歩いた道順(東→西)とは逆に、歌人相模の初瀬参詣ルートの往路の順(西→東)に並ぶように掲げてみた。】

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飽波神社(生駒郡安堵町東安堵)

イメージ 2
飽波神社と額安寺を結ぶ道(東から撮影)


イメージ 3
岡崎川(東から撮影。安堵町)

イメージ 4