16日は、飽波神社から「平端駅」に戻る際、安堵町歴史民俗資料館にも立ち寄った。
(汗ばむほどの陽射しから逃れ、仄暗くひんやりとした座敷で一休みすることもできた。)
資料館の座敷の棚に置かれていた『安堵町史』などの地域資料を手に取る。期待するような平安時代の「あとむら」に言及した記述は見当たらなかった。
ただ、佐保川・大和川の合流地点としての安堵町の立地の重要さは、今日の見聞でも確かめられたように感じていた。漠然と…ではあるけれど、歌人相模の初瀬参詣ルートを「龍田道」経由と想定する場合、水陸交通の結節地点としての安堵町の位置は、11世紀の「あとむら」と重なりそうだ…と。
21世紀の私は、額安寺の地点から想定ルートを北に離れて、もと来た道を「平端駅」まで戻る。そこから、「菅田神社」(大和郡山市八条町)に立ち寄り、「二階堂駅」(天理市二階堂上ノ庄町)に向かう途中で、歌人相模が見た「すがたの池」を探す予定だった。
しかし、旅の前から、『歌に詠まれた「すがたの池」とは、きっと歌人が詠んだ数だけ、あちらこちらに存在しているのでは…』と感じていた。
*p.551「菅田池 幽考ニ 二階堂村の南菅田にあり 俗に こもが池といふ ト 」【註1】
*p.559「(採録された図中の説明) 此川筋 田地トナル」【註2】
『大和志料』上巻の記述と採録図をもとにしつつ、且つ近代の「菅田池」=11世紀の「すがたの池」と仮定した場合、その池はおそらく、「二階堂駅」のすぐ西の二つの溜池(後掲写真の溜池①:大和郡山市八条町~写真の溜池②:大和郡山市宮堂町)と、すぐ南西の溜池(天理市二階堂北菅田町)が相当するようだった。
【註1 : 『大和志料』上巻p.551の「菅田池」とは、「二階堂駅」から約750mほど南の”下ツ道”沿いに位置する池(二階堂南菅田町)が、まさしく該当すると思われた。ただ、歌人相模が詠んだ「すがたの池」の地点としては、想定ルート上から南に外れるために、ここでは除外して考えることにした。】
【註2 : 『大和志料』上巻p.559の「此川筋」とは、弧状の旧河道で、現在の「三郷橋」付近で佐保川(採録図では「古代の川筋 奈良川」とあるが…)の西側に張り出して湾曲する川筋。「天正ノ比ノ川筋」であるらしい。その川筋の南東延長上に半円で「池」が示され、その北側に「菅田領」「小城村」と記されている。現在の景観とどう照らし合わせるべきか悩ましいのだが…。】
そして、その三つの溜池は、地図上ではかなり入り組んだ地点に位置していた。つまり、近鉄線と京奈和自動車道(郡山南IC)とが交差し、大和郡山市と天理市との行政界が階段状に区切られている地点に固まって位置しているのだった。
また、この階段状の行政界が、もし旧河道の名残であったとすると、これらの三つの溜池も、かつての流路の名残ではないのか?とも思われた。
さらに地図上で一帯を眺め渡すと、北部と東部が高く、南・西に向かって低くなるように思われる地形だった。北からは佐保川が、東からは布留川が、南東からは初瀬川が、三つの溜池を扇の要として集まってくるように見える。
また、三つの溜池と、佐保川をはさんで真西にあたる額安寺との直線距離は1500~1800mほどだった。どちらも、川の合流地点、という立地の意味は大きいように感じた。
あれこれと地図を眺めても、実際に撮影した溜池はわずか二つ。地域一帯に溜池は点々と数多く分布するというのに。
結局、往古の歌人がこの地域を旅して詠んだ「すがたの池」は、その時、その歌人の眼の前にあった池が、その歌人にとっての「すがたの池」だったのだろう、と思った。そして、歌人相模が眼にした「すがたの池」は「良因といふ寺」への道のなかにあったはずの池だった。その池について、歌人相模は『底が浅い…』と感じたようだ。私が実際に眼にした溜池は、決して底が浅いようには見えなかったけれど。
すがたの池にて
106 行く人の すがたの池の 影見れば 浅きぞ そこの しるしなりける
佐保川((南西から撮影。三郷橋を渡ると右手に菅田神社。)
菅田神社(大和郡山市八条町字一夜松)
【歌人相模の初瀬参詣推定ルート(拙い図を再掲)】