enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

右京(2)大江公仲邸跡、藤原良相邸(西三条第)跡

 大江公資(?~1040)の子‣広経は、甥‣公仲を養子とした、とされている。この公仲は公資の孫にあたることになる(1094年、公仲は重罪で隠岐に流刑となり、3年後に戻されているようだ。大江公資も、歌人相模の蔵書を焼いてしまうようなところがあったという。公仲はそれ以上に荒々しい人物だったのか?)。
 また、その公仲の遺産を巡って、女‣仲子と、公仲の養子‣有経との間に遺産相続争いが生じ、1130年、仲子が裁判を起こしているという(大江公資の子孫はおよそ100年後、歌人相模の歌集の世界からは、ずっと遠い世界に行き着いてしまったように思われる)。
 この公資の孫‣公仲は、祖父や父たちが受領時代に蓄えた財産を引き継いだのだろうか、「大江仲子解文」によって、平安京内だけも、3箇所の宅地(左京2件、右京1件)を所有していたことが分かっている。
 その右京の宅地について、『京都市の地名』(平凡社 1979年)の「大江公仲邸跡」から引用させていただくと、「西三条地壱町 在右京三条一坊六町、建三間四面屋一宇」となる。
 この“右京三条一坊六町”は、現在のJR二条駅の西(平安宮朱雀門から直線で400mほど南西)に位置している。そしてこの六町は、藤原良相(9世紀中葉の相模国司でもある)の西三条第跡と推定されている地だ。
 その発掘調査については、資料(第240 回京都市考古資料館文化財講座「平安京右京三条一坊六町(藤原良相邸、西三条第、百花亭)の調査」、リーフレット京都№175「右京三条一坊六町の調査」など)で詳しく報告されているが、大江公仲邸跡そのものに関連する情報はほとんど得られなかったようだ。
 相模国にゆかりのある場所(?)ということで訪ねてみたが、やはり、平安時代の景観をイメージすることは難しかった。

イメージ 1
大江公仲邸跡①

イメージ 2
大江公資邸跡②(藤原良相邸跡として現地説明会が開かれたのは、①の北側にあたる、この駐車場一帯ではないかと思う)