enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

左京(2)大江公資邸跡

 左京六条三坊六町の慶滋保胤邸跡(地図が読めないうえに粗忽なために、enonaiehon:左京(1)での撮影地点を誤まっていた。その後、気がつき、訂正)から北東の大江公資邸跡まで、地図上では400mほどの近さだ。また北西向かいの200~300m先には大江匡房邸跡(11世紀後半の江家文庫の地ともされている)が位置している。
 保胤は池亭にしばらく住まったのち、出家したようだ(1002年没)。彼が参加した勧学会には、弟の保章(歌人相模の祖父)や、大江以言(公資の叔父)も加わっていたとされている。
 歌人相模は、大江公資と出会うまで、母(保章女)とともに一条の源頼光邸に暮らしていたのだろうか。
(保胤が池亭での暮らしを始めた982年頃、大江公資〔?~1040〕はすで生まれていたと思われる。歌人相模〔991年?~1061年以降〕はまだ誕生していない。)
 少なくとも、大江公資は自邸近くに保胤邸(池亭)がある(あった?)ことは知っていたと思う。
 その大江公資邸のあった地域には「大江町」の名が残っていた。
 ようやく辿りついた…。
【補記:大江公資邸跡・慶滋保胤邸跡・大江匡房邸跡、後述の五条東洞院内裏の位置については、「修徳学区の歴史的資源概略図」をもとにした。】
2022年10月時点のリンク先:
修徳地域景観づくり計画書(案)111003 (kyoto.lg.jp)
 
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東西に走る万寿寺通(右手)と、南北に走る東洞院通(左手)とが交差する角(南西から撮影)
この北東角あたりが大江公資邸跡に重なる地域のようだ。
能因が桜の季節に毎年訪れたという公資の屋敷。主人を失ったあと、その荒れ果てた庭に差し込む月の光…公資を偲ぶ能因の姿。そのありさまを、現在地から思い浮かべるのは難しかった。
 
イメージ 2
 
        「大江町」の標示と南北の東洞院通(南から撮影)
 
イメージ 3
 
        「大江町」の筆書きの文字が際立つ消火器入れ
 
イメージ 4
大江町一帯
万寿寺通との角から東洞院通を北に進み、松原通万寿寺通から1本北)に出たところで振り返る。
写真右手(東洞院通の西側)は”五条東洞院内裏”の位置にあたるようだ。
ここから宿まで300mほどだった。
偶然選んだ宿が、大江町にこれほど近かったことが、何だか嬉しい気がした。
ようやく、旅の一日目が終わった…。