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私の第三十四夜をつづります。

右京(1)淳和院跡(高山寺・西院春日神社)

 京都の旅の二日目。
 前夜は本当に疲れ果てていた。
 朝起きて驚いた。左手の甲が膨れてパンパンだった。指も曲げづらい。コンタクト・レンズを使った左眼の瞼も、みごとに腫れあがっている。
 そういえば、夜中、手に強いかゆみを感じ、長い間、眠れなかったのだ(ホテルの冷蔵庫に保冷剤があるわけでもなく、薬を塗ってしのいだ。ひたすら痒みが弱まるのを待った。それでも、いつのまにか再び眠ってしまったらしい)。
 出かける支度をしながら、腫れた左手には、ハンドタオルを湿らせて巻きつけてみた。左眼はいつもの通り、時間が経てばもとに戻る。情けないけれど、何しろ出かけなくては…。今日一日は、荷物が軽いのが嬉しい。
 二日目のプランでは、東寺を訪ねる前に、西院に立ち寄ることにしていた。
 ロビーは外国人の宿泊客たちの姿が多かった。やはり京都なのだ。
 ホテルの玄関を出る。烏丸通は広くて、私にはどこかエキゾチックでさえある。通勤の人だろうか、みな足早に通り過ぎてゆく。月曜日だった。何だか、この気分は新鮮だ。私は束の間、異邦人になった気がしてワクワクした。
 烏丸駅から地下を走って(地図上で破線で示されていたが、”地下鉄”ではなかった)、阪急京都線西院駅を降りる。
(今回、京都の地下鉄路線はシンプルだということを知った。近鉄竹田駅から地下鉄四条駅まで、私鉄電車がそのまま乗り入れると思い込んでいたことが恥ずかしい。駅員さんに、あのう、地下鉄路線図、あるでしょうか?と尋ねた時、困ったような表情だったわけが、今なら分かる。いただいた路線図を眺めている今なら。)

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「淳和院跡」の石標が立つ高山寺(東から撮影)
淳和院の東南部分にあたるようだ。

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西院春日神
天長10(833)年、淳和院(西院)の守護社として、奈良の春日大社から勧請されたと伝わっている。
東の高山寺から、西の春日神社までの距離はおよそ250mほど。一町を四分割したほどの広さの大江公資邸跡や慶滋保胤邸跡は、謙遜ではなく小宅の規模だったのかもしれない(8m四方ほどの面積で暮らす私には、もちろん想像を超える大邸宅だが)。

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境内に残された礎石

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 四条通に面する「ジョーシン」ビルに設置された説明板
この淳和院西端にあたる地域の発掘調査が行われたことで、明らかになったことも多いのだろうと思う。その一方で、遺跡は破壊されてしまう。もっと知りたい、もっと調査されれば、もっと分かることがある、でもそれでは遺跡を壊してしまうことになる…報告書を前にすると、いつも矛盾した気持ちになる。