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私の第三十四夜をつづります。

左京(3)西寺跡から東寺へ

 西院で淳和院跡を見学し、四条から歩いて九条の西寺跡・東寺へと向かった。
 (9世紀中葉の大住郡・高座郡大領壬生直広主・黒成のこと、862年・865年に冷然院・淳和院に充てられた大住郡・愛甲郡の土地のこと、そして9世紀後半に連なる嵯峨源氏仁明源氏相模国司たちのこと。それらの歴史に密接に係わると思われる中央の政治…それを理解するのは無理でも、平安京の歴史のよすがを少しでも感じられる場所に立ちたい…その一つの場所が、西院の淳和院跡だった。)
 西院駅から御前通を南に下った(実際に下り坂と感じた)。
 西七条で松尾神社御旅所に立ち寄る。
 JRの下をくぐり、西寺跡の唐橋西寺公園に辿りついた。
 ここが、西寺跡なのだ。海老名国分寺の公園に比べ、狭く感じる。ごく一部が保存されているだけなのだろう。中央の小高い丘の上に礎石が展示されていた。登って周囲を眺め渡す。見下ろす高さだ。この丘は自然の高まりなのか、原地形を利用して造成した土壇なのだろうか。それにしても、この丘上にあった礎石なのだとしたら、いったいどのような建物が建っていたのだろう。
 事前に何も調べてこなかったことを後悔する。とりあえず…と写真だけを撮る。丘を下りながら、瓦片など?と思ったが、もちろん、それらしいものはなかった。そのまま東寺へ向かった。
 東寺ではようやく念願の”観光客”になる。60代にして、初めて東寺五重塔を見る。そして偉大な空海が残した立体曼荼羅というものを目にする。それだけだ。嬉しい。

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唐橋西寺公園  
ベンチで子犬の世話をする人のほかに、人影はなかった。水道があったので、ありがたく、炎症で腫れた左手の甲を冷やす。覆っていたハンドタオルも洗い直すことができた。そして木陰のベンチで休んで、中食をとることにした
(旅の間、毎回、いっときの飢えと乾きを満たすだけの食事だ。ふと、こんな旅をしている私はどうなんだろう…と思う。ま、いいか。周囲に迷惑はかけていないはずだから。)

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公園の丘上の「史蹟西寺阯」の碑と礎石

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東寺御影堂 
堂内に上がり、しばらく座り続けた。心が静まっていった。それでいて、晴れていくような気持ち。なんだろう、これは…。

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東寺金堂
すごいなぁ…。心に浮かんだのはその一言だった。

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東寺金堂(北西から)
金堂のなかは、別世界の空間だった。薬師三尊像の前で、身も心も涼しくなるように感じた。伽藍の天井近くを何かが羽ばたいて、虹梁の上あたりに留まった。鳩だった。彼らは、このように静かで厳かな仏様たちと一緒に暮らしているのだろうか。

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東寺五重塔近景
立派な五重塔だと感じた。西寺が再興されなかったこと。東寺が現在のような形で残っていること。それは、東寺が空海に託されたからではないだろうか、と想像した。もし、嵯峨天皇空海に授けた寺が西寺であったなら、現在、西寺が残り、東寺は廃寺跡になっていたのでは? 空海とは、そのような人だったのではないだろうか、と。

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瓢箪池越しの東寺五重塔

 瓢箪池の前では、記念写真を撮る修学旅行生たちの若々しい姿があった。私も彼らの年代に戻ることができたなら、歴史を学ぶ人になりたかったと思う。
 楽しみにしていた立体曼荼羅も、無事に見終わった。ホッとした。
 友人たちへのささやかなお土産や絵葉書を買い、最後に東寺名宝展を見学した(二度と眼にすることがないかもしれない国宝の曼荼羅図などをじっくり眺めるべきと思いつつも、視線がとどまるのは、江戸時代の九曜像だったりする。しかも、観察力がひどく乏しい自分に、いつもがっかりするのだ)。

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「羅城門遺址」の碑
旅のまとめを左京・右京に分けて整理しながら(右京の西寺跡と中央?の羅城門は、左京の東寺に続けてまとめた)、やはり、この羅城門跡に立ち寄ってよかったと感じた。東寺の兜跋毘沙門天像がこの地に祀られていたという。建物が跡形なく消え去ってしまいながら、その像が今なお残され続けていることの不思議さを思う。

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東寺から京都駅に向おうとして、偶然、立ち寄った六孫王神社。説明板を読んで、源経基を祀っていること、この地が源経基の八条邸跡とされていることが分かる。10世紀末の慶滋保胤邸跡、11世紀前半の大江公資邸跡を訪ねたこともあって、10世紀前半(?)、八条という地に邸宅をもった人だということに興味を感じた(源頼光の祖父にあたる人として、歌人相模とも多少、袖振り合うだろうか、擦り合うだろうか?)。