雨も降らず涼しかった5日、一日がかりのシンポジウムに出かけてみた。
”評から郡へ”という歴史の流れのなかで成立してゆく古代東国の郡家と寺院について、7つの報告と全体討論を聴きながら、自分の最近の不勉強を感じ続けた。7名の研究者の方々の報告が、次々と耳を素通りしてゆくばかりだった。
考古学的な事例報告が4本ほど含まれていたなかで、3本については、かつて現地説明会に足を運んだ遺跡でもあった。しかし、それらの遺跡はすでに10年近く、私の中で埃をかぶったままになっていた。遺跡の姿は、努力して思い起こし続けていなければ、すっかり埋もれてしまうものなのだと思った。
ましてや、”土地勘”の働かない地域の報告については、全くと言っていいほど理解が追いつかなかった。そんな私でも、改めて郡家や寺院のあり方を考えてみたくなるような、刺激的な視点・論点が示されたことだけは理解した。
その後、あれこれと昔の資料や写真を眺め、今回のシンポジウムをきっかけに疑問として残った問題点を書きとめてみた。
(討論のコメントで、例として挙げられたのは多磨郡家や下総郡家だった。相模国府所在郡の大住郡家については事例にも挙げられないほど、まったく手つかずの状態のままなのだ。)
*寺院建設に…寺院だけに限らないと思うのだけれど…、国と地域はどのように係ったのか? 相互に係って協力関係にあったのか、どちらかが主導的役割を担ったのか? 報告やコメントでも指摘されていたように、シンボル的な”ハコモノ”でもある地方寺院建設のための費用・技術・態勢、”ソフト”としての活動内容・機能について、どこまで分かっているのだろうか?
*7世紀後半から8世紀にかけての地方において、国界や郡界、国宰所や評家(国庁や郡家)、寺院、道路などが総合的に成立してゆく過程について、文献と発掘調査から、どこまで分析・解明が進んでいるのだろうか? 研究者間で共通理解はあるのだろうか?(今日のシンポジウムの論点は、地方官衙・寺院が成立する順番や正確な時期、その背景のストーリーをあぶりだす、ということだったのだろうか。そもそも、その流れや様相は全国的に一律だったのだろうか。)
*郡家や寺院などが成立するなかで生きた人々のあり方をとらえる視点・方法には、どういうものがあるのか? 中央から派遣された人々の活動や、地域の人々の生業、拠点となる集落のあり方、集落内の遺構や遺物の様相などは、どこまで研究が蓄積されているのだろうか? 何か傾向は見出されているのだろうか?
知識と理解力の不足による見当はずれの疑問点かもしれないが、専門の研究者の方々の報告や討論から刺激を受ければこそのものだ。やはり、できるだけ外に出て、積もった埃を払わなければ…と思った。
~シンポジウムで報告された”上野国新田郡家跡”の遺構をふりかえる~
(2007年6月24日の”天良七堂遺跡”現地説明会から)
①1号礎石建物跡(1号基壇建物)の全体…東から撮影。相模国府域内では掘込地業の遺構を見たことがなかった。その色と大きさに驚いたことを覚えている。
②1号礎石建物跡(1号基壇建物)の版築…東断面。その後、相模国高座郡の下寺尾寺院跡(茅ケ崎市)の金堂とされる基壇建物の版築についても学んだ。二つの版築遺構の様相はかなり異なると思う。それは創建期(7c末~8c前半)の白鳳寺院の金堂と、礎石建物が総地業から壺地業へ変わる時期(3段階期~4段階期は9c代か?)の郡家正殿との違い、つまり建物の性格や時期の違いからくるものなのだろうか。
(2005年7月17日の”三軒家遺跡”現地説明会から)
2005年の7月は、”大道東遺跡”の現地説明会にも出かけた。
”佐位郡正倉跡”、”新田郡家跡”、そして”東山道駅路が走る古代の大集落跡とされた大道東遺跡”と、上野国の東西に連なる遺跡を見学した2005年・2007年。相模国を越えて、古代東国の遺跡の姿に胸躍らせていた時期を思い返す。なつかしい…としてしまって良いのかどうか。
旧前田侯爵邸(懐徳館)西洋館の基礎の一部(5日のシンポジウム会場で撮影)