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私の第三十四夜をつづります。

〝相模国を創る〟エネルギー

22日、神奈川県考古学会の講座「相模国を創る-古代の役所と寺院-」に参加して、6本の発表と講演を聴いた。すべて聴き終わった時には、古代相模国の形を創ろうとした時代の求心的なエネルギーを、私も少しながらイメージすることができたような気持ちになった。
また、講座名の“創る”の語は、古代相模国の歴史景観について、これまで考古学や文献学の立場から調査・研究を積み上げて来られた方々のエネルギーをも意味しているように感じた。
 
充実した発表内容については、まだ消化できていない。ただ、発表された遺跡ごとに視覚的に印象に残ったものがある。それは、映し出された数多くの貴重な画像・資料のなかのいくつかだ。
 
小田原市の「千代寺院跡とその周辺」では、1951年に千代中学校の校庭土取り工事で削平された遺跡現場の写真。ああ、遺跡群の貴重な土層は校庭の土に使われてしまったのだ…と思った。失ったものというのは、どうしても大きかったように思えてしまう。
茅ヶ崎市の「下寺尾七堂伽藍跡と高座郡衙」では、基壇建物跡の版築面上に残された突き痕の写真。いくつかの円形の突き痕が、素人の私の眼でも確認できた。柱痕だけでなく、工事で一時的に突いた痕跡でも、このように残されるものなのだと不思議に感じた。考古学ならではの生の映像だった。
川崎市の「橘樹郡衙跡について」では、一つは官衙遺跡群の位置図。遺跡群を横切る中原街道主要地方道45号丸子中山茅ヶ崎線)のあり方は、7世紀後葉(橘樹評衙や影向寺〔前身寺院〕の造営期)にまで遡るもの、というような説明があった(私の理解が誤っていなければ)。果たして、この“7世紀後葉に遡る中原街道ルート”は、平塚市域(相模国府域)の中原街道の下に重なるものなのだろうか。
もう一つは、伊勢山台地区で検出された壁建ち(大壁)建物の写真。これまで、大壁建物について、ニュース記事で滋賀県の事例を知るだけだった私は、この神奈川県下でも?と唐突な印象も受けた。
説明によれば、この官衙遺跡群近くに所在する馬絹古墳を築造した人々や、橘花屯倉を管掌していた人々と係る遺構ではないか、と想定されているようだ。こうした布掘り状のような遺構は、国府域内の発掘調査報告書で似通ったものを見たような記憶があった(素人の私には、布掘りと大壁建物の区別ができないのが情けないところだ)。
横須賀市の「石井系瓦窯から乗越瓦窯へ」では、乗越瓦窯跡前の小さな入り江に浮かぶ船の写真。今まさに瓦を積んで相模湾へと漕ぎ出すような場面に見える。発表された研究者の方の思いが伝わってくる写真に思えた。
*海老名市の「相模国分寺の創建」では、一つは“主要伽藍構造比較表”。海老名国分寺の塔・金堂・講堂の各建物について、平面・基壇・地業などの定量的なデータ、使用材、主軸などを比較することで、伽藍の建立順序・時期を考察するという視点は、分かりやすく新鮮に感じられた。
もう一つは、「主要資材供給元推定図」。資材の供給元の特定、輸送路の想定、さらには造営体制に踏み込んだ考察も興味深かった。
 
あっという間の一日だったが、意欲的な発表を聴き終わって、考古学会の世代交代が進んでいることを感じるとともに、調査・研究のエネルギーがしっかりと継続されていることを頼もしく思った。