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私の第三十四夜をつづります。

”巡礼みち”を歩く-飯泉そして多古-

 2日朝、勝福寺(飯泉観音、弓削寺)の十一面観音像を拝するため、小田原に出かけた。
 平安時代の十一面観音像を眼にし、また、”巡礼みち”(巡礼街道)の一部を歩くことができる貴重な機会だ。
(この”巡礼みち”は、明治20年測量の地図で見ると、国府津三ツ俣遺跡が所在する森戸川河口から、飯泉村の「観音堂」まで、4㎞弱を直線的に走っている。今回、実際には、現在のJR鴨宮駅から、旧地形図上の飯泉村観音堂」を経て、酒匂川・狩川合流付近を現在の飯泉橋で渡り、多古村「玉宝寺」までのルートを往復した。)
 これまで、相模国府について勉強を始めてから、千代寺院跡(千代遺跡群)や足下郡家、古代道路(永塚遺跡群・下曽我遺跡)、津(国府津三ツ俣遺跡)、駅家(小総駅)などについて、たびたび学ぶ機会があった。
 ただ、そうした機会には登場しなかった勝福寺については、いつか…と思いながら、なかなか出かけることがなかった。
 今回、勝福寺についての予習・復習のなかで、いつものようにあれこれと想像した。
 平安時代に北千代台から飯泉へと移ったとの伝承をもとにすれば、奈良時代下野国へ下向する道鏡と接点をもったとされる寺院は、千代寺院跡と同じように千代台地上にあったのだろうか。
 そして、この勝福寺は、12世紀末には、『吾妻鏡』に「弓削寺」として名が残されているようだ(1192年5月、後白河法皇の四十九日法要のために集まった百僧のうち、「弓削寺 二口」と記されている)。今回歩いた”巡礼みち”は、そうした鎌倉時代にさかのぼる可能性はあるのだろうか、と思う。
 また、旧地形図上の多古村・玉宝寺付近を歩きながら、11世紀前半の『相模集』とも係りそうな早川牧、さらには早河荘田子郷(多古)一得名について調べていた頃のことも思い出した。そして、多古村の地域から、このまま狩川沿いに道をたどれば、足柄峠へと通じることにも気がついた。
 (10年以上前、所属していたサークルで『神奈川の古代道』(1997年・藤沢市教育委員会 博物館建設準備担当)をもとに、古代東海道を歩いた際には、このようなルートは考えもしなかった。郡家想定地などを考慮せずに、また、”巡礼みち”ルートを10世紀にまで遡らせることができれば、小総-(”巡礼みち”)-坂本というルートなどもあり得たかもしれない…などと妄想する。)
 こうして、現代の直線的な”巡礼みち”を歩きながら、思いは曲折しつつ、古代をさまよってしまう。結局のところ、当初、期待していた十一面観音像の姿については、ありありと拝することはかなわなかった。私に、もう一度33年後、は無いというのに。
 
妻側から見た勝福寺仁王門(八脚門)
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   記念樹のもとに礎石?
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酒匂川①
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酒匂川②
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