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私の第三十四夜をつづります。

酒匂出土の軒丸瓦⑤【追記】

◆「酒匂北中宿遺跡」第Ⅵ地点で10世紀前後の軒丸瓦が出土したことを、どう考えれば良いのだろうか…答えなどあるはずもないのに…ただ、その場所に瓦が持ち込まれただけかもしれないのに…。
それでも、今の私が抱く酒匂地域のイメージは次のようなものになった。
 
1):酒匂~小八幡~国府津の地域を駅家郷と想定
2):酒匂~小八幡~国府津の安定した地盤上に「小総駅」が所在したと想定
?(3):酒匂地域を、“狩川沿いの足柄峠越えルート”と、間道として利用されていた可能性のある“筥荷途”との結節点として仮定
9世紀後半、“足柄路”は“僦馬の党”の出没で治安が悪化する ⇒ 9世紀初頭に一時的に使用された“筥荷途”は、その後も古代東海道の間道として利用されている可能性 ⇒ 酒匂地域は足柄及び箱根の峠越えルートの結節点として位置付けられる
10世紀後半には、永塚・下曽我・千代の台地上の古代遺跡群が衰退する
11世紀以降、海岸部の森戸川河口〔国府津三ツ俣遺跡〕などの開発が進む
12世紀後半~中世にかけて、“筥荷途”の利用(二所詣や東国下向・帰洛で利用)が継続する
?(4):「酒匂北中宿遺跡」第Ⅵ地点の掘立柱建物群は、駅家郷の機能に係るものと仮定
   *10世紀前後の瓦片は、周辺に瓦を部分的に使用した掘立柱建物が存在した可能性を示    す(瓦葺の礎石建物が存在した可能性は少ない?)
   *駅家郷としての機能は10世紀以降も継続し、その宿駅としての位置づけは中世まで引    き継がれる
?(5):「酒匂北中宿遺跡」第Ⅰ地点の道路状遺構の可能性をもつ5号溝状遺構は、永塚・下曽我・千代の官衙域を経由せずに、狩川沿いに足柄峠に向かう道として、飯泉付近で酒匂川を渡河すると仮定
*『土地条件調査報告書』(建設省国土地理院 1981年)によれば、古代の酒匂川河口は現在より1㎞ほど西寄りと推定されているが、酒匂川と狩川の合流地点は現在とほぼ同じと仮定
*また、“筥荷途”に向かう場合は、古代酒匂川流路の河口付近(現在の東町付近?)で渡河したと仮定
?*5号溝状遺構が9世紀後半に廃絶した背景は?(元慶地震などの自然災害だろうか?)
 
以上の(1)~(5)は、11世紀の歌人相模の歩いた道(相模国府⇔走湯権現)との係りを思い描いての仮定だ。とくに(3)~(5)は、屋上屋を架す妄想となった。
これまで、小田原市内の遺跡について、「小田原の遺跡探訪シリーズ」を時折眺めてみるだけで、報告書を読んでいない。そのような素人の俄か勉強・思い込みをまとめた。冷や汗ものだ。