◆「酒匂北中宿遺跡」第Ⅵ地点で10世紀前後の軒丸瓦が出土したことを、どう考えれば良いのだろうか…答えなどあるはずもないのに…ただ、その場所に瓦が持ち込まれただけかもしれないのに…。
それでも、今の私が抱く酒匂地域のイメージは次のようなものになった。
(1):酒匂~小八幡~国府津の地域を駅家郷と想定
(2):酒匂~小八幡~国府津の安定した地盤上に「小総駅」が所在したと想定
?(3):酒匂地域を、“狩川沿いの足柄峠越えルート”と、間道として利用されていた可能性のある“筥荷途”との結節点として仮定
*9世紀後半、“足柄路”は“僦馬の党”の出没で治安が悪化する ⇒ 9世紀初頭に一時的に使用された“筥荷途”は、その後も古代東海道の間道として利用されている可能性 ⇒ 酒匂地域は足柄及び箱根の峠越えルートの結節点として位置付けられる
*10世紀後半には、永塚・下曽我・千代の台地上の古代遺跡群が衰退する
*11世紀以降、海岸部の森戸川河口〔国府津三ツ俣遺跡〕などの開発が進む
*12世紀後半~中世にかけて、“筥荷途”の利用(二所詣や東国下向・帰洛で利用)が継続する
?(4):「酒匂北中宿遺跡」第Ⅵ地点の掘立柱建物群は、駅家郷の機能に係るものと仮定
*10世紀前後の瓦片は、周辺に瓦を部分的に使用した掘立柱建物が存在した可能性を示 す(瓦葺の礎石建物が存在した可能性は少ない?)
*駅家郷としての機能は10世紀以降も継続し、その宿駅としての位置づけは中世まで引 き継がれる
*また、“筥荷途”に向かう場合は、古代酒匂川流路の河口付近(現在の東町付近?)で渡河したと仮定