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私の第三十四夜をつづります。

酒匂出土の軒丸瓦③

<酒匂出土の軒丸瓦② の続き>
◆「酒匂北中宿遺跡 第Ⅵ地点」の発表要旨で触れられていた“浜邊御所”については、二所詣や歌人相模の走湯参詣ルートを調べていた際に目にしていた名称だった。
 今回、平安時代の「酒匂北中宿遺跡」の位置づけを探る手がかりとして、まず明治期の地形図上で “浜邊御所”推定地を確かめてみた。そのなかで思い浮かんだことをまとめてみた。
 
浜邊御所について
「…〇御所蹟 八幡の社前なり、濶三千坪、白田を開けり、北域に土手の形尚残れり、高六尺、今は瓦屋舗と云、中古此所にて瓦を焼しと云、…此地の南東海道の大路をはんべと呼び、はんべより北に折れて爰に至る横街を、もと御所小路と唱へし由…」(『新編相模国風土記稿』1998年から引用)
 酒匂神社について
「…八幡神社は…もともとは酒匂神社のすぐ西側の、字瓦屋敷(舗)の地…付近に鎮座していた。…要するに、宿の西寄り、東海道の北側の、酒匂川の渡渉地点にほど近い自然堤防上の微高地に浜辺御所があったと推定されるのである」(『小田原市史通史編 原始 古代 中世』1998年から引用)
 
『新編相模国風土記稿』や『小田原市史 通史編 原始 古代 中世』の記述を参考にして、明治20年測量の地形図(2万分の1)を見ると、酒匂神社は西・南・東を下菊川に囲まれ、北には「白田」(畑)を控え、北東部は田、西側には水田が広がっている。
“社域だった”と思われる「三千坪」ほどありそうな区画は、村道(酒匂堰に沿って北上する道)で東西に二分されている。この酒匂神社周辺に、19世紀半ばの時点で「瓦屋舗」の呼称が遺るほどに、過去、中古の瓦が多量に出土したのだろうか。
酒匂神社南東に位置する第Ⅵ地点出土の軒丸瓦片は、これらの「御所蹟」・「瓦屋舗」の伝承に直接つながることはないにしても、酒匂地域が古代・中世を通じて交通の要衝であった立地条件に係る出土と言えるのかもしれない。
(ただ、今回のような少量の瓦片の出土は、そのまま瓦葺建物の存在を示していない。砂丘上の相模国府域でも古代瓦は出土するが、明確な瓦葺建物の存在は明らかになっていない。一方で、今回の第Ⅵ地点の発表では、ローム砂丘との境界に位置している調査地の写真が示されていたので、周辺の安定した地盤上に瓦葺建物があったかもしれないとも思う。)<④に続く>