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私の第三十四夜をつづります。

足柄峠越えと箱根峠越え

伊豆の葛城山から、富士・丹沢・箱根・伊豆の山々を見渡しながら、これまで『神奈川の古代道』(藤沢市教育委員会 博物館建設準備担当 1997)などをもとに学んできた古代東海道ルートについて、改めて思うことがあった。
 
①なぜ古代東海道ルートは箱根峠を越えなかったのか。
9世紀初頭に足柄路の代わりに使われた筥荷途は、その後どうなったのか。
 
 これまでは①は、単純に箱根峠を越えるより足柄峠越えのほうが楽だったからだろうと理解していた。
 ②は、足柄路の復旧後、筥荷途は使われなくなったと理解してきた。
(少なくとも、11世紀の歌人相模や『更級日記』の作者は足柄路を往来したのだろうから。)
 
だが、実際に湯坂路(筥荷途推定ルートの一部)を歩いてからは、古代東海道ルートが足柄峠越えとなった積極的理由は何なのか、と考えるようになった。そして、9世紀代を通じて続いた富士山の活発な火山活動、出没する僦馬の党などのリスクを考えると、箱根峠越えルートは足柄峠越えの代替路としての位置づけをずっと保ち続けていたのでは、というイメージを思い描くようになった。むしろ、地域の自然条件の変動や社会の趨勢に対応できる代替路が、常に確保されていることのほうが自然なように思えてきたのだ。
 
そもそも、駿河国府と相模国府を結ぶ最短距離という点では、長倉駅(駿河国駿河郡・伊豆国田方郡)と小総駅(相模国)を直線的に結ぶ「長倉駅-箱根峠-小総駅ルート」が自然だ。「横走駅-足柄峠坂本駅ルート」(甲斐国府に通じる支路方向に引っ張られたような迂回路)が選ばれた理由が分からなかった。
この点についての研究者の論考として、「高速道路から見る古代駅路の路線位置の検討」(『古代交通研究』第11号 古代交通研究会 2001年度)を読み、①の疑問を考えるうえでのさまざまな視点・見解を学ぶことができた。そして、研究者の方々の見解をもとに、①・②について、次のようなイメージを抱くようになった。
足柄峠と箱根峠は、それぞれのルート開発時期に前・後関係があった。その時期差が利用頻度にも影響し、そのまま足柄峠越えルートと箱根峠越えルートの位置づけの違いを決定した。つまり、足柄峠越えと箱根峠越えという二つのルートが成立していた時点で、先行開発によって官道的機能がより整い、より利便性が高くなっていた足柄峠越えルートが古代東海道の本道となった、というイメージだ。
古代の官道ルートの理解として、安易で反則的なイメージなのかもしれないが、現時点の私は、足柄路に本道の地位を譲った筥荷途が、平安時代を通じ、官道代替路として利用され続けていたのではないかと想像している。(今後、筥荷途のルート上に平安時代の人々の多くの足跡を発見することができれば良いのだが。)