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私の第三十四夜をつづります。

伊豆の城山~葛城山を歩く

 歌人相模を知ってから、平安時代の伊豆箱根地域について興味を持ち始めた。
 平塚の海岸近くに育った私にとって、伊豆は相模湾岸沿いの一つながりの地域であり、その山並みも親しい眺めだった。また、箱根駅伝は子どもの頃からのお正月の”行事”の一つでもあった(それに比べ、箱根に続く足柄の地域は、いまだに遠い山並みのままだ)。
 60代になり、歌人相模の歌に導かれて伊豆山に出向いてから、相模湾沿いの道を往来したであろう平安時代の人々が眺めた伊豆箱根の地域とは、どのような歴史のなかにあったのだろうか、と考えるようになった。観光地として見てきた伊豆箱根地域…その平安時代の姿が知りたくなったのだ。
 年末近くになり、急に思い立った。19日朝、伊豆の国市…昔の大仁町へと向かった。寒くはあっても風がない。天気は申し分なかった。
 思い立ったのは、大仁駅から狩野川沿いに歩いて城山~葛城山に登り、富士~箱根~伊豆の山々、狩野川や田方平野を眺めるためだ。
 また、歴史にからめれば、11世紀に生きた橘為仲*が見た(と推定する)「はこねの山」、また仁寛**とのゆかりをもつ(と想像する)景観を実際に確かめたかったからだ。
 そして今回、初めて大仁駅で降りた印象は、流刑地としての伊豆…といったイメージとはほど遠いものだった。むしろ、桃源郷のようなのどかな風景のように感じた。熱海や大仁などに限って言えば、伊豆国は厳しい流刑先ではなかったように想像する(ことに頼朝にとって、伊豆は流刑地としての意味をなさなかっただろう。)
 今回も、平安時代伊豆国の姿が見えてきたわけではなかった。ただ、城山~葛城山の頂上が、伊豆箱根という地域の立地を概観する場所として、絶好の地点であることは実感できた。
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*<2014.11.21 平安時代の箱根路(筥荷途)とは?> から
橘為仲〔?~1085
同じ十四日、はこねの山のふもとにとどまりたるに、月いとあかし
136 朝ごとに あくるかがみと みゆるかな はこねの山に 出づる月かげ (『為仲集』)
 
**仁寛(生年不詳 -1114年)左大臣源俊房の子。真言宗阿闍梨後三条天皇3皇子輔仁親王護持僧。1113年、永久の変で伊豆に配流。(その後、大仁の城山から身を投げたとの言い伝えがあるという。)
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狩野川と城山
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イメージ 2
城山の絶壁
(いかにも配流者の投身伝説を生みそうな断崖だった。この日の午前中、クライマーの姿は見かけなかった。)
 
城山から三島~箱根山を望む
駿河国側の麓から、箱根山はこんなふうに見えるのかと思った。いつか“平安鎌倉古道”~“筥荷途”のルートを歩いてみたいと思う。)イメージ 3
 
葛城山から長泉町東海道「長倉駅」想定地の一つ)方面を望む
橘為仲が「はこね山」の麓で明け方の月を眺めたのはどのあたりだろうか…妄想が広がる景観だった。)
イメージ 4