歌人相模を知ってから、
平安時代の伊豆箱根地域について興味を持ち始めた。
平塚の海岸近くに育った私にとって、伊豆は
相模湾岸沿いの一つながりの地域であり、その山並みも親しい眺めだった。また、
箱根駅伝は子どもの頃からのお正月の”行事”の一つでもあった(それに比べ、箱根に続く足柄の地域は、いまだに遠い山並みのままだ)。
60代になり、
歌人相模の歌に導かれて伊豆山に出向いてから、
相模湾沿いの道を往来したであろう
平安時代の人々が眺めた伊豆箱根の地域とは、どのような歴史のなかにあったのだろうか、と考えるようになった。観光地として見てきた伊豆箱根地域…その
平安時代の姿が知りたくなったのだ。
年末近くになり、急に思い立った。19日朝、
伊豆の国市…昔の
大仁町へと向かった。寒くはあっても風がない。天気は申し分なかった。
思い立ったのは、
大仁駅から
狩野川沿いに歩いて城山~
葛城山に登り、富士~箱根~伊豆の山々、
狩野川や田方平野を眺めるためだ。
また、歴史にからめれば、11世紀に生きた
橘為仲*が見た(と推定する)「
はこねの山」、また仁寛**とのゆかりをもつ(と想像する)景観を実際に確かめたかったからだ。
そして今回、初めて
大仁駅で降りた印象は、
流刑地としての伊豆…といったイメージとはほど遠いものだった。むしろ、
桃源郷のようなのどかな風景のように感じた。熱海や大仁などに限って言えば、
伊豆国は厳しい流刑先ではなかったように想像する(ことに頼朝にとって、伊豆は
流刑地としての意味をなさなかっただろう。)
今回も、
平安時代の
伊豆国の姿が見えてきたわけではなかった。ただ、城山~
葛城山の頂上が、伊豆箱根という地域の立地を概観する場所として、絶好の地点であることは実感できた。
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*<2014.11.21 平安時代の箱根路(筥荷途)とは?> から
橘為仲〔?~1085〕
同じ十四日、はこねの山のふもとにとどまりたるに、月いとあかし
136 朝ごとに あくるかがみと みゆるかな はこねの山に 出づる月かげ (『為仲集』)
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城山の絶壁
(いかにも配流者の投身伝説を生みそうな断崖だった。この日の午前中、クライマーの姿は見かけなかった。)
(駿河国側の麓から、箱根山はこんなふうに見えるのかと思った。いつか“平安鎌倉古道”~“筥荷途”のルートを歩いてみたいと思う。)
(
橘為仲が「
はこね山」の麓で明け方の月を眺めたのはどのあたりだろうか…妄想が広がる景観だった。)